歴史探偵

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旧東京音楽学校奏楽堂・訪問記

日本の音楽教育の黎明期を知る。

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日本の音楽教育はここから始まった

”奏楽堂”という建物、ご存知でしょうか。

上野公園の一角にある、たいへん趣きのある木造の近代建築です。

明治に入って日本が一刻も早く西洋に追いつかねば、とシャカリキになっていたあの時代。それは音楽教育の分野も例外ではありませんでした。

そうした時代の空気の中、1890(明治23)年、西洋式の音楽教育を一手に担っていた東京音楽学校の校舎して建てられたのが、「東京音楽学校奏楽堂」。中には日本初の"本格的な西洋式音楽ホール"も備えていました。なお東京音楽学校は現在の東京藝術大学の前身です。

奏楽堂は建物そのものもたいへん興味深いですが、館内では日本の音楽教育がどのような過程をたどってきたのかが分かる貴重な資料が多数展示されています。クラシック音楽に関心がある人にとっては、「日本人による第九の初演ってここだったのか〜」的な”刺さる”情報が満載なのですが、建物の中にまで入ってそれらの資料を閲覧しようという人はそんなに多くありません。そこで、さくっとこの記事で紹介したいと思います。

入場料は300円

入場料は300円。この額なら気軽に払えますね。なお常設展示は写真撮影OKでした。これもありがたい。

奏楽堂は上野公園のここ!

奏楽堂は上野公園の北西の端。東京国立博物館に近いところにあります。上野駅からだと、右上方向を目指して歩いて行けばたどり着けます。

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もともとは東京藝術大学のキャンパスにあった

この奏楽堂、もともとは少し離れた東京藝術大学のキャンパス内にありました。昭和50年代、老朽化し、取り壊されそうになったこともありましたが、所管が台東区に移され、建物自体も昭和62年、上野公園内に移築されました。

現在、東京藝術大学音楽学部キャンパスには同じ「奏楽堂」という名を冠する近代的なホールが建っています。

 

建物を見れば”和洋折衷”が分かる

こちらは建物の外観を正面から写したもの。

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矢印の部分を拡大すると、下の写真のような部材があります(展示用のガラスケースに入ったもの。実物の4分の1サイズの模型)

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このデザインには東京音楽学校の理念が表現されているそうです。展示の解説を引用しておきます。

中央の雅楽で使用される火焔太鼓(かえんだいこ)、左に西洋の楽器である竪琴(ハープ)、右に和楽器の笙(しょう)を配しています。和と洋の音楽の要素を取り入れ、新しい音楽の創造を目指すという、東京音楽学校の理念が屋根の装飾に表されているのです。

和洋折衷を表現するのに、和太鼓・笙とハープを持ってくるなんて、すごく分かりやすいデザイン。でも直截で面白いです。

一旦、この部材は建物から失われていましたが、上野公園への移築の際、復元されました。

 

防音の仕組みが超アナログ!

こちらの写真は奏楽堂の壁の模型。

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このように漆喰で塗られた壁の中には、防音上、 音響上の効果を狙って、藁束(わらたば)がぎっしり詰まっているそうです。

これは西洋から伝わった方法なのか、日本独自の方法なのか。クラシックの音楽ホールが藁の力を借りて防音しているなど、典雅なクラシックとのギャップがありすぎて面白いですねえ。

 

日本音楽教育史の偉人たち

伊澤修二〜この人がほんとにほんとの最初〜 

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井澤は、東京音楽学校の前身である「音楽取調掛(おんがくとりしらべかかり)」という機関を作った人。日本の音楽教育はここからはじまりました。アメリカに留学し、西洋音楽教育を学び、メーソンという外国人教師も連れてきました。言うなれば、”日本の音楽教育の父”ですね。

 

幸田 延(こうだ・のぶ)〜日本で最初の国費による音楽留学生〜

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写真の右が幸田延。「五重塔」という作品で有名な(って読んだことないんですが)小説家・幸田露伴の妹です。彼女は日本で最初に、国のお金で音楽留学しました。また

ちなみに写真左は延の妹・幸(こう)。延に続く留学生第2号です。

で、こちらの譜面。幸田延が明治30年に作曲した《ヴァイオリン・ソナタ ニ短調》です。

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これが日本人が最初に書いた器楽曲(=楽器のみの曲)。楽器も楽譜も、メロディーも何もかもが初めて体験することだった日本人が、西洋音楽を作曲するというのは、いったいどんな経験だったんだろう。

 

ご存じ 瀧廉太郎〜「花」「荒城の月」で有名なあの人がピアノを弾いている〜

こちらは東京音楽学校の学生だった瀧廉太郎。廉太郎は幸田延の弟子でした。

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東京音楽学校 第1回定期演奏会で《J.S.バッハ イタリア協奏曲》を独奏しているところです。

演奏会のプログラムにも…

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ちゃんと瀧の名前があります。

瀧には、いかにも日本風なメロディーを書く、というイメージがありますが、東京音楽学校で西洋音楽教育の基礎をしっかり学んだ上での、作品だったんですね。

 

日本人による第九初演

こちらの写真は日本人によるベートヴェン第九初演(大正14・1925年)の時のもの。

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和服の演奏者が目立っていて、今とずいぶん雰囲気が違います。

プログラムはこんな感じ。

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ちゃんと「第九交響曲」とあります。

こちらの関西シティフィルハーモニー交響楽団のサイトによると、公演はずいぶん盛況だったそうです。

http://kcpo.jp/legacy/33rd/B-Sym9/perform2.html

ちなみに、日本人でなく外国人が日本で第九を初演したのは1918年。徳島のドイツ軍捕虜収容所でのことでした。

 

最後に

奏楽堂にはこの他にも、屋根に特徴のあるホールなどもあります(ただ、訪問時、演奏者のリハーサルが入っていて撮影NGでした)。300円の入場料の割には見所満載です。

クラシック音楽、もしくは日本史に興味がある人なら、一度は行ってみる価値ありです。

 

参考文献

漱石が聴いたベートーヴェン―音楽に魅せられた文豪たち (中公新書)

漱石が聴いたベートーヴェン―音楽に魅せられた文豪たち (中公新書)