天皇を尊ぶ思想が徳川御三家から生まれた理由。
- 尊皇攘夷とは?
- すごく良い本に出会った!〜「五箇条の誓文」で解く日本史〜
- 西洋列強に対する危機意識
- 幕府・水戸藩に衝撃を与えた「大津浜事件」
- 幕末の志士たちに最も影響を与えた書物『新論』
- 鎖国=牧歌的な時代の終わりと攘夷思想の誕生
- 尊皇思想が生まれる前提ー水戸藩の特殊事情
- なぜ水戸で尊皇思想が生まれたのか?
- 攘夷思想の源流を水戸に植えつけた中国人
- 並び立たぬ尊皇とキリスト教
- 尊皇攘夷から尊皇倒幕へ そして昭和の戦争
尊皇攘夷とは?
ここ数週間の大河ドラマ・西郷どんでも、寺田屋騒動で凄絶な死を遂げた有馬新七はじめ、多くの志士が口にする「尊皇攘夷」という言葉。
改めて言葉の字義にしたがって解釈しておくと、皇は天皇。攘は「打ち払う」という意味で、夷とは「えびす」で野蛮な外国人のこと。つまりは尊皇攘夷とは天皇を尊び、外国人を追い払うことになります。
幕末、この尊皇攘夷の思想が多くの志士たちを過激な運動へと駆り立て、結果歴史を大きく動かすことになりました。
すごく良い本に出会った!〜「五箇条の誓文」で解く日本史〜
そもそも尊皇攘夷の思想は「水戸学」にその源流があるとよく言われたりします。水戸学とはその名の通り、水戸で教え学ばれていた政治思想。でもどうして御三家ということで、徳川将軍家の本流に近い水戸から尊皇攘夷の源流となる思想が生まれてきたのか、長い間不思議に思ってました。
でも最近、その疑問をスッキリはっきり氷解させてくれる本に出会いました。それがこの『「五箇条の誓文」で解く日本史』

「五箇条の誓文」で解く日本史―シリーズ・企業トップが学ぶリベラルアーツ (NHK出版新書)
- 作者: 片山杜秀
- 出版社/メーカー: NHK出版
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明治維新から150年の日本近代史を貫く原理を「五箇条の誓文」(=明治天皇が明治元年に国を治める基本方針を天地神明に誓ったもの)に見い出すというそれはそれで興味深い内容ですが、その第一章の「尊皇攘夷再考」のところで、水戸藩と尊皇攘夷思想の関係を極めて明快に説明してくれています。この記事でそのポイントをまとめておこうと思います。
西洋列強に対する危機意識
幕末の日本人の根底には日本に迫り来る西洋列強に対する恐怖、危機意識があった。特に1810年代になると、イギリスとアメリカの捕鯨船が房総から東北、岩手沖ぐらいまでの太平洋に出現するようになった。それ以前は外国船といえば、西から中国の南側をつたってやってくるものだった。
この太平洋に外国船が現れるようになったというのも日本、特に太平洋側の諸藩にとっては脅威だったようです。
幕府・水戸藩に衝撃を与えた「大津浜事件」
1824年、イギリスの捕鯨船が薪と水、食糧を求めて水戸藩内の大津浜に気安く上陸してくる事件があった(大津浜事件)。事件の調査に当たった水戸藩の会沢正志斎は、イギリスが日本を植民地化しようとしていると思い込んだ。そういう事態に対する対策を論じようと『新論』という書物を著した。
幕末の志士たちに最も影響を与えた書物『新論』
新論の内容の要約です。
- 日本(神州)は太陽がのぼるところで、元気の始まるところ。エネルギーの根源。
- 日本は太陽神(天照大神)の子孫である天皇を元首にすえている。
- 世界で太陽がまっさきにのぼる国=日本に太陽神の子孫が途切れることなく天皇として続いている。これほどできすぎた奇跡の話はないから日本は神国と呼ばれるに値する世界唯一の国で、世界を統轄するにふさわしい存在。
- 世界を人に例えると日本は頭。ヨーロッパは足。足の分際で頭である日本に迫り来るとはけしからぬ。アメリカはそのヨーロッパのさらに先なので、人間の体ですらない。野蛮の極み。
ずいぶんと夜郎自大というか、世界のことを知らない人間の言いそうなことにように思います。が、この書物が当時の日本で大きな影響を与えたことを思えば、多くの日本人がロクに世界のことも知らず単に外国人を打ち払え!と血気盛んだったんだろうなと想像できる。
鎖国=牧歌的な時代の終わりと攘夷思想の誕生
会沢正志斎はなぜ『新論』を書いたか。アメリカが当時、日本にとって最大級の脅威であり、そのことについての危機意識を日本人に植え付けようとしたから。太平洋にアメリカ、イギリスの船が現れるのは日本史上ほとんど初の事態と見なされた。
もう鎖国をしていれば外国が近づいて来ないという牧歌的な時代は終わった。日本という神国を守るためには積極的な外国を打ち払う必要がある。幕末の攘夷思想がここに生まれる。
尊皇思想が生まれる前提ー水戸藩の特殊事情
水戸藩は他藩と違って非常にユニークな(特色ある)藩だった。
水戸藩は徳川家御三家。しかし尾張、紀州の藩主は大納言なのに、水戸のそれは中納言。つまり水戸藩の位階(朝廷からもらえる位)は他の御三家より低い。
水戸藩主は参勤交代はなく、「副将軍」という正式ではない称号を名乗って、江戸定府だった(=常に江戸に滞在する必要があった)。
参勤交代はしなくて良いが、江戸定府がゆえに他藩よりも江戸で抱える家臣がたくさん必要であり、江戸での交際費も非常にかさんだ。
にもかかわらず、江戸が攻められれば、水戸藩は将軍家の盾になることを求められていた。
このように非常に負担が重いのに、尾張や紀州より石高も低かった。経済力に比する政治的・軍事的負担率が江戸時代の諸藩の中でも際立って高く、その財政はいつも火の車だった。
この本を読んでいちばん面白かったのがこの部分。水戸から尊皇思想が生まれた前提条件として、水戸が負担が大きいのに、名誉(位階)でも経済でも恵まれていなかったということ。この理屈を知るだけでもこの本を読む価値があると思う。
なぜ水戸で尊皇思想が生まれたのか?
これだけの負担に耐えねばならない水戸ではそれに耐えるだけの理屈が必要とされた。それを率先して考えたのが水戸光圀。水戸藩は命懸けで幕府を守る。幕府にはそれだけの値打ちがあるはずだ…。
その理屈立ては以下の通り。
征夷大将軍の位は天皇から与えられたもの
→天皇は神話時代から連綿と続く他国に例を見ない特別な存在。
→その天皇が存在する日本は他国に類例のない国柄を持つ。その国柄を守り続けるのが将軍。
→ゆえに将軍の権力、幕府の秩序を保つことは、世界に冠たる国柄(国体)を護持することに直結する。
これが光圀の考えた水戸藩の思想的立場。逆に言うと、幕府が天皇を"尊皇"していないと水戸藩が将軍を命懸けで守る義理はないことになる。
だから、朝廷の許しも得ずに列強と条約を結んだ井伊直弼は、朝廷をないがしろにしたとして、水戸藩士によって暗殺されることになった(=桜田門外の変)。
攘夷思想の源流を水戸に植えつけた中国人
幕末、会沢正志斎も『新論』で主張した攘夷思想。さかのぼればその萌芽はやはり光圀時代にあった。
改めて攘夷の"夷"は「えびす」で野蛮な外国人のこと。"夷"と反対の漢字は"華"。世界の真ん中で最も高い文明と華麗な力を誇る国=中華の国=中国を指す。
しかし光圀時代の日本に、日本こそ中華な国である、という意識を光圀に植えつけた人物がいた。それが明国の儒学者・朱舜水。
朱舜水は儒教の国・明の崩壊を目の当たりにする。その際、皇帝に対する忠臣が少ないことに絶望した。一方で彼は日本で水戸光圀に会う。光圀の政治家としてのふるまい、楠木正成のように後醍醐天皇への忠誠に殉じた忠臣の存在、古代から連綿と続く天皇家の存在などを知り、日本こそ、本当の中華であり、理想国家なのでは、と考えた。そしてその考えを光圀に伝えた。これが水戸藩の中に「日本こそ理想の儒教的国家であり、中華な国である」という意識を植えつける端緒となった。
また朱舜水は、そのような素晴らしい日本の歴史を日本人自身が確認するため、司馬遷の『史記』のような歴史書の編纂を光圀に勧めた。光圀はすでに『大日本史』の編纂を進めていたので、中国の学者からお墨付きをもらう形になった。
並び立たぬ尊皇とキリスト教
日本こそ理想の儒教的国家である、という強烈な自意識を持つに至った水戸藩。妥協知らずの完全かつ徹底的な攘夷にこだわった。それは「キリスト教の”神”=地上の最高価値」とする思想と「天皇を地上の最上価値」とする尊皇思想が相容れないから。
この反キリスト教的観念は、江戸時代初期、スペインやポルトガルの宣教師を入れると民衆反乱が起きるから、と言ってキリスト教を禁教にし、鎖国した理屈とも違う。あくまでも尊皇の考え方から出てくるもの。
尊皇攘夷から尊皇倒幕へ そして昭和の戦争
水戸からどうして強烈な尊皇攘夷思想が出てきたか見てきました。ただその”攘夷”に関しては、西洋列強の軍事的実力の前に達成し得ませんでした(薩英戦争で薩摩が、下関戦争で長州がそれぞれ列強に敗北する)。そのため攘夷のたぎりにたぎったエネルギーは”倒幕”へと向かい、歴史は明治維新へと動いていくことになります。
しかし攘夷的な思想そのものは日本近代史の底流に流れ続けていたと『「五箇条の誓文」で解く日本史』では言います。引用します。
昭和に入って、西洋と張り合うだけの力をつけたと思った日本が、アジアの盟主となって西洋を追い払うという発想を持つに至る。
ここでは西洋と張り合うだけの力をつけたと”思った”というところが重要(だと思う)。実際はコテンパンにやられたのだから張り合うだけの力はつけていなかった。しかし外国の力量を冷静に見極められなかった昭和の軍人はある種、幕末人よりもっと夜郎自大だったのかもしれません。
※尊皇(王)攘夷は”方便”だったという出口治明さんの記事はこちら。
※大河「西郷どん」ファンのみならず、広く歴史好きが楽しめる展覧会。