歴史探偵

趣味の歴史、地理ネタを書きまくろうと思っていたら、仕事柄どうしてもTVの記事が多くなる今日この頃…

本「日本史のツボ」感想⑤〜軍事は総合力〜

南北朝時代から日本は兵站を軽視していた…。

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日本人の遺伝病=戦略が下手

昨夏、NHKスペシャル「戦慄の記録 インパール」という凄まじいドキュメンタリーを見た。凄まじいというのは番組の完成度もさることながら、旧日本軍の人命軽視の程度も信じられないくらい凄まじかったということ。

ミャンマーからイギリス軍がいたインド北東部の攻略を目指した日本軍(これをインパール作戦という)はロクな装備・食料もないままジャングルの中を行軍し、餓死・病死でバタバタ死んでいった。特に悲惨だったのは行軍ルートにある大河の川岸での死者が大量にいたということ。食うもののない中、病気にも苦しめられ、極度に体力が低下した身体で川を渡ろうとして溺れ死んだのだそうだ。

「死の行進」をさせられた兵士の方々を思えば胸が苦しくなるほど悲痛だが、同時に「こんな命令を出す日本の指導者層は何というバカなのだ」と呆れ果ててもしまう。しかしこの指導者層=マネジメント層の程度が低いというのは、きっと今の会社経営にも言える。「ある業務量=◯人が◯時間かかる量」といった分析をせず、必要なリソースを割かないままアイマイに仕事を部下たちに振り、過大な残業を強いたり、最悪の場合過労死に至らしめるなど、現代のインパール作戦と言えるような事態はそこここにまだあるのではないだろうか。

このような事態を軍事的な用語で言えば「兵站の軽視」ということになるのだろうが、この日本人(経営層の)悪癖が、南北朝時代からあったというのは、驚き半分、悲しさ半分(そんなに根深いのか…という意味で)である。本文中から引用しておく。

日本ではこの兵站の問題はずっと軽視されてきました。昭和史などでも、戦前の日本軍は兵站を軽んじたと批判されますが、これは歴史的に見ても言えることです。たとえば南北朝時代、『神皇正統記』を著した北畠

親房の息子、北畠顕家が東北地方の兵を率いて、近畿地方に遠征するのですが、兵站的には何の準備もせず、ただ行った先々で略奪を繰り返すだけ。

兵站を考えるというのはまさに先々のシミュレーションを立てて、必要な物資を用立てるという戦略そのものだが、この戦略を練るというのが南北朝時代から出来ていないと思うと「そりゃ違法残業だって過労死だってそうそう簡単には無くならないな…」と絶望的な気分になってしまう。日本人の遺伝子深くに巣食う病気みたいなものかも。

 

情緒の文明は軍事研究を否定する

さて「日本史のツボ」の話に戻す。「日本では太平洋戦争ののち、軍事史の研究はなおざりになってしまった」「何百万人という犠牲を出したこと、また戦前の軍国主義の否定から、戦争=悪、軍事=悪という図式が作られてしまったから」と著者は説く。これ自体も日本人の悪癖だなあと思う。戦争をロジックで捉えるのでなく心情的にイヤだからとアタマから考えもしない。全否定してしまう。

最近のNHK・BSの番組「英雄たちの選択」で歴史家の磯田道文さんが「日本最大の美点は情緒の文明を作ったこと。最大の欠点も情緒の文明を作ったこと」とおっしゃっていたらしいのだが、この軍事研究を忌避する態度などその欠点が一番現れているところだな、と思ってしまう。

 

歴史史料の軍勢の人数はけっこうエエカゲンなもの

軍勢を動かそうと思うと兵站がいる。どのぐらいの兵站がいるか、二つの例が挙げられている。

  • 明治26年、陸軍参謀本部が出した数字は「領地百石あたり三人の兵」。
  • 秀吉が朝鮮出兵の際、下した命令では「百石あたり五人の兵」

だそうだ。

このように兵站から考えるに1180年、源氏と平氏が争った「富士川の合戦」で平家方7万、源氏方20万と史料(『吾妻鏡』)にあるのは明らかな誇張。応仁の乱で両軍合わせて20万というのも疑わしい。川中島の戦いも同様。しかし戦争においては自分の兵を多く表現することで相手の士気をくじく側面もあるから史料の数を鵜呑みにはできない。

戦争は一人の兵士がいったいどれくらいの米を食うのか、といったようなリアリズムで分析しないといけないんだなと思う。

 

戦争には「大義名分」が必須

例としては戦国時代の一向一揆のように宗教的な要素、戊辰戦争の「錦の御旗」のような歴史的な正統意識など。戊辰戦争では薩長が戦争の枠組みを「官軍vs.賊軍」の図式に持っていったのが上手かった。徳川につくはずの多くの譜代の藩が戦わずして薩長軍に降伏した。

鎌倉時代の「宝治合戦」「霜月騒動」などの戦でも正統=権威を利用している。どちらの戦でも、もはや実力はなく権威だけの存在になってしまっていた鎌倉幕府の将軍が担がれた。

戦争には①兵力②国力(経済力)③大義名分(思想的要素)が必要だが、太平洋戦争は皇国史観などを利用して③だけで乗り切ろうとしたため、敗戦した。まだ富国強兵を重視して、国を豊かにして西洋列強に追いつこうとした明治政府の方がちゃんとしていた。

 

戦争を遂行するためにも戦国大名は”経済”を重視した

争いが日常化していた戦国時代。鉄砲のような新兵器も導入されるし、大量の雑兵足軽を調達するにもお金が必要だった。そのため戦国大名は国を富ませる必要があったが、領国において一元的な支配を確立していた彼らはそれが可能だった。戦国大名はそそれ以前の守護大名より段違いの兵力を動かせるようになっていた。その代表例が小田原城を16万の兵力で取り囲んで北条氏を降伏させた豊臣秀吉である。

 

 ※戦国大名は武家政権の進化形態。下記の記事を参照してみてください。

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