歴史探偵

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本「日本史のツボ」感想⑥〜日本はいつから一つなのか〜

日本史というものはない。地域史があるだけ?!

 

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日本はいつから”一つ”なの?

自分は京都府の生まれで、20代後半までずっと関西にいました。普段は"日本は一つ"と何の疑いもなく日々過ごしてるんですが、東北とか行くとその感情が少し揺さぶられます。

その地の歴史の案内板なんかで「この辺りは平安時代初期に中央政権の支配下に入った」みたいな記述を見たりすると「ああ、そうか…。東北って中央(当時だと畿内)とは別の支配者に服属していたんだな…」と改めて気づかされる。

東北がそうならばきっと関東だって「いつから中央の支配下に入ったのか」という問いは立てられるはず。そうやって考えていくと日本のいくつかのブロックの寄せ集めで出来ているような気がしてきて、むしろ今みたいに「何でもかんでも東京中心で、日本は一つ」というのが逆に不思議な気さえしてきます。いったいいつから日本は一つなんだ…?

 

この日本史のツボの「第五回 地域を知れば日本史がわかる」というのが章も「ひとつの日本」というイメージを疑い、そのイメージを揺さぶり壊すべく様々なエピソードが語られます。印象に残ったポイントと感想をまとめておきます。

 

関西の“東側の関所"を固める固関(こげん)という儀式

著者は「固関」という儀式を紹介するところから話を起こします。これは天皇の代替わりや朝廷で大事件が起きたとき、関所を閉ざすこと。中央からお尋ね者を逃がさない、関所の向こうから誰かが攻めてこないよう警戒を強化する、というねらいがありました。

封鎖するのは3か所でした。関所があった ①琵琶湖の北、越前にあった愛発(あらち)の関(→これはのちに京都と大津の間の逢坂(あふさか)の関に代わる)。ここは北陸道の閉鎖。②三重の鈴鹿山に置かれた鈴鹿の関。ここは東海道の閉鎖。③関ヶ原にあった不破の関。ここは東山道の閉鎖。

著者は重要なのは3つの関はいずれも都から東側に置かれていたことだ、と言います。つまり朝廷は東側のみ警戒していた、と。西側は自分の身内に近い感覚があったということです。

また「関東」という言葉も本来はこの3つの関の東側を指していたらしいです。当時は現在の中部地方でも関東であった、と。関西という言葉はまたなかった時代です。なぜなら今の関西は"中央"だったからです。

 

古代の政権が基盤にしていたのは近畿〜瀬戸内海〜北九州 

古代の政権は西は自分たちのものという意識がありました。その中で大陸から進んだ文化が入ってくる玄関口となったのが博多。そしてその博多から政権のある畿内までの大動脈となったのが瀬戸内海です。

またこの瀬戸内海に面する大分の宇佐八幡宮。ここに祀られている八幡神はもともと宇佐地域の土着の神様でしたが、やがては皇室の守護神としても崇敬されるようになります(その後は戦いの神様として武士の信仰を集める)。

その理由として古代政権が南九州の隼人(中央に従わぬ南九州の土着の人々)を征伐しに行く際、この宇佐八幡宮に祈りを捧げていたからだそうです。ローカルな神様が中央の神様に昇格するという構図があるんですね。

 

中央と「関東」の境界 そのルーツは壬申の乱

「壬申の乱」(672)というか古代最大の内乱があります。天智天皇の後継を巡って天智の弟の大海人皇子(のちの天武天皇)と、天智の息子で皇太子の大友皇子が争いました。

その際、大友皇子が拠点としている大津京(当時の都は今の滋賀県大津市にあった)に対して大海人皇子は関ヶ原を拠点にします。関ヶ原は元々大海人皇子の所領があり、大きな古墳が築かれるなど豊かな土地で、鉄の産地でもありました。

そして西(大津京)からやって来る大友皇子の軍勢を防ぐため封鎖したポイントというのが、「不破の関」と「鈴鹿の関」。のちに壬申の乱に勝利して都を飛鳥に移した天武天皇はこの2つのポイントに加え、「愛発」にも関所を設けます。やはりこの3カ所くらいまでが天武天皇にとっては東側の勢力範囲だったと著者は結論づけています。

壬申の乱に関してもう一つ。「白村江の戦い」(663)では西国から軍勢が招集されました。そのため壬申の乱が起こった頃は西国は疲弊しきっていた。ゆえに東国に拠点を置いた大海人皇子が勝利を得ることができたんだそうです。大海人皇子の戦略勝ちでした。

 

坂上田村麻呂はイラクにおける米軍

さて、古代においては関東とは美濃、越前辺りを指していた。では「今の関東、東北は…?」というと著者は「化外の地(けがいのち)」だったと述べます。当時の中央政権からすれば、文明の光の当たっていない野蛮人が住むところ、だったというのです。

では平安初期、東北に征夷大将軍(夷=野蛮人を征討する将軍)として派遣された坂上田村麻呂の仕事はどう評価すべきなのか。

著者はその坂上田村麻呂軍をイラク戦争後の米軍になぞらえます。米軍はイラクを制圧したように見えたが実質的なのイラクの全面的統治には至らなかった。同様に古代の朝廷も、東北の多賀城(宮城)、胆沢城(岩手)といった拠点とその周りは"点"として押さえているが、東北全体の統治には到底及ばなかったらしいです。

今までの教科書的な理解だと地図を色で塗るように平安期の朝廷は東北を支配下に置いたようなイメージを持ってましたが、そうではないということですね。統治するとは、支配下に置くとはどういうことか。もっと解像度の高いレンズで見るように些細に実態を見ていかないと、内実は分からないんだな、という気がしてきます。

 

武士を生んだ『北斗の拳』ワールド

平安時代は教科書に載るような合戦が多くないので平和な時代だと思われがち。優雅できらびやかな王朝文化をイメージしがち。

しかし平安時代の地方に目を向けてみるとルールなき”弱肉強食”の時代で、自分の身を守れるのは自分だけでした(これを著者は『北斗の拳』ワールドと呼んでいます)。

こうした状況の中から生まれてくるのが武士。武力でもって自分と家族を守るというわけです。

実は武士の発生には2通りある、と著者は整理します 。

  • 田舎の武士…在地領主。地方にいて、取れるところから租税徴収を行い、自分でも土地を開発する。
  • 京都の武士…天皇や朝廷、摂関家の保護を行う。警察のようなもの。

著者は前者に立っています。京都の武士も京都周辺で土着化した在地領主を京都に連れてきて傭兵化した、という考えです。

著者の説が正しいとすると、次の時代(鎌倉時代)の覇者は地方から生まれたことになりますね。

 

平安末期の伊豆は帝政ロシアのシベリアみたいなもの

源頼朝と平清盛の話です。平清盛は「平治の乱」のあと頼朝を伊豆に流します。

なぜのちに敵対することになる頼朝を伊豆に流したのか。

命を助けたのは池禅尼という清盛の継母の嘆願があったから、らしいのですが、伊豆という土地に流したのは、当時の伊豆が帝政ロシアにおけるシベリアくらい僻地と考えられていたから、と著者は言います。京都生まれ京都育ちで関東のことなど全然知らない清盛にとっては、まさか伊豆から頼朝が再起してこようとは夢にも思わなかった。それだけ京都と地方との格差が大きかったという一つの証左です。

また頼朝は平家を富士川の戦いで破ったあと、部下の進言を聞き入れ、西の京都に進軍せずに関東を地固めをします。また関東の武家(北条氏)の娘である政子を妻とする、鎌倉に幕府を開いてからも京都へは2回しか行っていない、など関東重視の姿勢を見せる。

頼朝は関東(の武士)を大切にしていたからこそ政権が獲れたということです。反対に京都の雅な文化(和歌など)に憧れ、関東武士の支持を失ったのが3代将軍・源実朝でした。

 

鎌倉初期の東西の境&室町初期の東西の境

鎌倉時代初期に東西の境がどの辺りと考えられていたか。著者は2つの事例を挙げています。

①頼朝は御家人が後白河上皇から勝手に官位をもらうのを禁じていました(自分を通せ、と通達していた)。しかし義経やその他の御家人で勝手に官位をもらったものが出ます。そうすると、頼朝はそういう挙に出た者たちに”美濃の墨俣”(秀吉の一夜城で有名な地名ですね)から東に来るな!と言い渡します。頼朝の頭の中には美濃の墨俣が東西の境界線としてあったのではないか、という話です。

②承久の乱のあと、鎌倉幕府は朝廷を監視するための機関・六波羅探題を京都におきます。このとき六波羅探題の管轄区域を尾張より西、と定めるのです(三河より東が鎌倉幕府の管轄)。①より35年ほど経って東西の区域が少し東にズレました。

また室町初期、足利尊氏が、後醍醐天皇方であり東北に拠点を持つ北畠顕家を迎え撃つとき防衛ラインとして定めたのは美濃の青野原(関ケ原)でした。 尊氏に頭の中にあった東西の境界です。

それにしても昔からず~っと岐阜・愛知の辺りはまさに東西の境界であり続けてたんですね。

 

尊氏はなぜ京都に幕府を開いたか

頼朝は伊豆に流されるまでは京都生まれの生粋の京都人。足利尊氏は鎌倉生まれの鎌倉育ち。それぞれが出生地とは逆の土地に政権を開いています。

頼朝は関東武士に自分の地盤があったから鎌倉に幕府を開いたわけですが、尊氏はなぜ鎌倉を離れ、京都に幕府を開いたか。

著者は鎌倉中期に凄まじい勢いで広まった貨幣経済にその理由を求めています。1225~1250年あたりで東北地方まで銭ベースの経済が広まった。その銭ベース経済の中心は京都でした。

経済の仕組みが土地中心から銭中心に変わった時代。尊氏がその経済の中心である京都を押さえるほかない、と京都に幕府を開きました。

※貨幣経済の浸透がいかに武士の社会を変革したか、について書いています。

www.rekishitantei.com

 

日本を”統治しきれなかった”室町幕府

室町幕府はその責任範囲を思いきって縮小した幕府でした。3代将軍・義満に仕えた管領・細川頼之はもともと関東支配を任せていた関東公方に東北地方を任せました。その関東公方への備えとしては守護大名の今川氏を置きました。

また通商上重要だった九州・博多は山口の守護大名・大内氏に担当させます。そして今川氏と大内氏以外の守護大名は京都に集め、幕政を担わせました。

また室町時代の宗教界のトップだった満済(まんさい)という僧の日記には、尊氏が「遠国のことは少々思い通りにならなくてもこれを放っておけばいい」と言っていたことが記されているそうです。

ここでいう遠国とは関東、東北、南九州が入ると著者は言います。つまり室町幕府は西国(近畿、中部、中国、四国)中心の経営のみに特化したダウンサイジング政権でした。そしてその西国の守護大名が京都で室町幕府を支えていた。

自分が思うにこの室町幕府のダウンサイジングは幕府が全国を抑えきれないという現状をきちんと制度で認めたということなんでしょうね。逆に言うとそれまでの政権でも日本全国をきちっと統治していた政権などなかったということではないかな…。

 

戦国時代を地方が主役の時代と見る

ダウンサイジングした室町幕府でさえも、応仁の乱が起こると致命的に機能しなくなり、京都で幕府を支えていた大名たちも地方に帰ります。ここから戦国時代が始まる。

ここで戦国大名として、地方に勢力を張れた武家に2通りのパターンがあるそうです。

  • 守護大名からそのまま戦国大名へ(甲斐の武田、九州の大友、島津、少弐、山口の大内、駿河の今川)
  • 守護大名が京都にいた留守中、領国経営を任されていた守護代もしくはその奉行、国人たち

これらの戦国大名たちは自分の支配地域をしっかりと統治することも目指すのが第一。次いでその中から、領地を拡げ、天下を取ろうというものが現れた。要するに、地方が時代の主役の時代になりました。

中でも筆者は中国地方を抑えた毛利、関東地方を抑えた北条は、独立政権になれた可能性があったかも、と言います。秀吉の天下統一が毛利との和睦→北条との合戦勝利で終わったのも、その可能性を示唆するものかも、と。

そうなると、もっと地方色豊かな日本が生まれていたのかもしれませんね。

 

関東・東北を掘り起こした徳川家康

天下統一を果たした秀吉は家康を関東に移します。これは平清盛が源頼朝を伊豆に流したのを同じで、関東に流してしまえば、もう家康は何もできないだろうと思ったのではないか、というのが筆者の推理です。

しかし家康は江戸を興し、関東を巧みに経営し、やがて幕府も開きます。秀吉の思惑は外れました。家康が参考にしたのは鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」。全国に散逸していた写本をつなぎ合わせて一冊の本にし、頼朝がどうやって関東を治めていたのかを研究していた。

さらにまだまだ開発の余地があった東北を開発し、石高も飛躍的に増大させました(逆に江戸時代、近江などの石高はほとんど増えていないそうです)。伸びしろのあった東国を豊かにして、西国が先進地域だった日本のバランスを取ったと言えるかも。

 

最後に

東国を開発して日本の中心を江戸に移した家康ですが、筆者は今やその功罪の罪=東京一極集中が進みすぎてしまったのでは、と言います。東京以外の多様性に目を向けるのが必要なのではないか、と。

ここからは自分の考えですが、それは理屈としては分かるけど、やはり首都機能移転くらいの思い切った改革がないと、東京一極集中は改まらない気がします。結局家康も秀吉によって無理やり移転させられたから関東にきたわけで、それがなかったら、駿府(静岡)辺りで過ごしたかったのではないか、と。この辺りは日本史の話というよりも、都市論の範疇に入るのかもしれません。文明が発達すると、人は都市に集中するものだ、という考えもありますし。

いずれにせよ、日本史を眺めると、日本が今のように一つになったのは割と最近なんだな、ということが分かります。関西の人間が東北に行って旅情を感じるのは、大昔はそこは外国(のようなもの)だったからなのかも。