歴史探偵

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本「戦乱と民衆」・感想&ポイントまとめ②

民衆は足軽にもなるし、悪事だってはたらく。

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「応仁の乱」で大ヒットを飛ばした呉座勇一さんの章

さて、「戦乱と民衆」第二章は「応仁の乱と足軽」と題されています。この章の基になる講演をされたのは中公新書の「応仁の乱」で純粋な歴史本ながら大ヒットを飛ばした呉座勇一さん。でも自分はまだこの本、読んではいない…。いろいろネット記事を見てみると、細かい事実が網羅されてるようで、読み始めても途中で投げ出してしまいそうで二の足踏んでます。でもこの「戦乱と民衆」は講演・対談の書き起こしなのでサッと手が伸びちゃいました。

 

足軽ってそんな単純なものじゃない

それははておき、この章のテーマ「足軽」。自分にとって足軽は「兵の一番下っぱで、歩兵で簡単な鎧と槍ぐらいを持って戦闘に参加する人」くらいなイメージです。大多数の人もきっとそうじゃないでしょうか。

呉座さんは足軽を定義するのはなかなか難しい、と言い、まずは足軽な多様な姿を史料から紹介してくれました。

当時の史料には足軽がどのような形で出てくるのかというと…

  • 京都・東福寺の僧侶の日記『碧山日録(へきざんにちろく)』…「合戦で活躍する軽装の歩兵部隊」

として登場。これは自分の足軽のイメージに近いです。

  • 当時の最上級の公家の日記『樵談治要(しょうだんちよう)』…「昼強盗」「悪党であり、敵と戦わずに寺社・公家の屋敷などに破壊し、強盗・略奪・放火をする人たち」

敵がいるところに攻めかからず、敵がいないところに押し入って、放火してモノを取ってゆくからだそうです。ん〜、だんだん合戦に参加している下っぱ兵士、というイメージではおさまらなくなってきました。

  • 奈良の寺院の僧侶の日記『大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうじき)』…貧乏な下級武士の一団が足軽と称して土民の蜂起(=土一揆)のように暴れ回っている。

「武士が民衆みたく暴れているってどういうこと?」って思っちゃいますが、呉座さんの説明が続きます。

当時は足軽を名乗れば戦費調達というより名目で略奪行為を正当化できたそう。当時、足軽はその親分である大名からは報酬は支給されなかった代わりに略奪の許可を得ていました。大名が犯罪行為を許可するとか今の感覚で言うとなかなか理解し難いですね。今の軍隊を見る眼で当時の軍を見ると何だかいろいろ誤りそうだ。

さらには大名から雇われてもいないのに勝手に足軽を名乗って略奪をした土民(民衆)もいたとか。こうなってくると何でもアリのむちゃくちゃ状態ですね。

 

土一揆ってなんだろう?

先ほど土民の蜂起=土一揆(つちいっき)というワードが出てきましたが、土一揆とは何か。呉座さんは

土一揆というと、幕府に対して徳政令を出させる、つまり借金を棒引きにする運動というイメージが強い。

と書いてますが、確かに中高生の教科書だとそういう説明だった気がします。当時の寺院の記録には「民衆が蜂起し、徳政を要求して金融業者(酒屋・土倉・寺院等)に押し入って破壊行為をおこない、ものを取っていってしまう」という記されているそうです。

また当時の上級貴族の日記には土一揆が京都や京都郊外の寺社に立て籠もり、徳政令を出さなければ寺を焼き払ってしまうぞ、と幕府を恫喝している例も。この日記の中で、書き手である上級貴族は「土一揆は金融業者を襲撃して、略奪しているだけ」と土一揆の連中を非難しています。確かに当時の金融業者はとほうもない高金利なので、土一揆の側にもそれ相応の理屈はある。しかし金融業者から見れば略奪・破壊である事には違いなかった。要するに土一揆は生活に苦しむ民衆が自分たちの生活をラクにしてくれる善政を求めて一揆をする(もしくは実力行使する)…といった単純な図式ではないということです。

当時の資料には京都からはるか遠方よりやってきて一揆に加わり、金融業者から物を奪っていく民衆の事例、金融業者以外の家も襲う事例なども載っているそうです。こうなってくると民衆は”か弱き民”とはもはや言えない。

 

「武士が味方する土一揆」「武士を倒す土一揆」

土一揆に対して室町幕府は諸大名に鎮圧を命じます、そうすると、あろうことか大名の家来が土一揆に便乗して略奪を始めてしまった例もあったそうです。また鎮圧に向かった武将も土一揆に討ち取られてしまったというケースも。

今の政府や警察権力と同じように当時の室町幕府を捉えてしまいがちですが、実態は全然違いますね。世の中に安定した秩序がある」というのは当たり前でなく、様々な力の均衡や人々の心の中にビルトインされた倫理感覚がもたらす”ある条件下での状況”であるんだなあ、というのをしみじみ感じます。

 

応仁の乱の時期に土一揆が消える不思議

応仁の乱が戦われていた時期、なぜか土一揆の発生はしていない。それはなぜか。足軽と土一揆を扱った史料を読み込んだ結論として呉座さんは、土一揆を起こしていた人々が足軽として応仁の乱に参加していたからだ、と主張します。呉座さんの文章でその思考の展開を一緒に追ってきた読者からすれば、全くうなずくしかない結論でした。歴史学者というのはこういうふうに論を展開するのか、と学者の方法論も垣間見れた気がした。

 

最後に〜権力って何だろう 中世ってどういう時代なんだろう〜

この第二章の最後で呉座さんは

土一揆と足軽とは、地続きの存在だったことがおわかりいただけるでしょう。

と述べます。それについては完全に納得できました。すると同時に自分の思考はもっと前へ進みます。民衆が金融業者以外の家も略奪したり、武士も土一揆に加わったりと秩序がむちゃくちゃな中で人々は日々どうやって生活を送っていたんだろうということです。自分たちで自衛しつつ、幕府や諸大名も秩序の維持にいくばくかの機能は果たしていたのか。いずれにしても人が生きて行くだけで大変な時代だったんでしょうね…。

とはいえ応仁の乱の時代は今の日本人の生活文化の源ともいわれる室町文化(茶の湯とか書院造などの住宅建築とか)も花開いていた。そんな優雅な文化談義はいったいどんな環境の下で行われていたんだろう。足軽と民衆について理解が深まったと思ったら新たな疑問も湧いてきます。

 

※「戦乱と民衆」第1章についてはこちら。

www.rekishitantei.com