歴史探偵

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本「戦乱と民衆」・感想&ポイントまとめ①

語られてこなかった民衆のリアルな姿。

戦乱と民衆 (講談社現代新書)

戦乱と民衆 (講談社現代新書)作者: 磯田道史,倉本一宏,クレインス・フレデリック,呉座勇一

 

 

サクサク読めるのに内容は濃い

自分は「歴史探偵」というブログを運営しているくらいなので、歴史は好きなんですが、もちろん学者でなないし歴史オタクという感じでもない。今まで教科書で語られていた歴史の”一般的なイメージ”をひっくり返してくれるような本に出会った時がいちばん幸せ、といったくらいの歴史ファンです。

例えば「古代の公地公民なんていうのはフィクション。こんな制度を実施しようと思うと戸籍を整備するなどめちゃくちゃレベルの高い行政能力を必要とする。なので公地公民というのは当時の朝廷が”そうであったらいいのになあ”と考えた理想のシステム。実際の税は取れるところから取り立てる、といったものだった」みたいな記述です。ちなみにこれは「日本史のツボ」(本郷和人著)に書かれてあったことです。教科書の(たぶん)太字のキーワードだった「公地公民」がフィクションだった、なんて聞くとちょっとワクワクする。なるほど実際の所は違ったのね、と思える。こんなふうに自分の常識が崩れたり新鮮な知識が頭に仕入れられた時に快感がビビビと走ります。

それで言うとこの「戦乱と民衆」(講談社現代新書)はそんな快感が満載な本でした。「中世の土一揆を起こした人たちと足軽は実は同一の民衆だった」とか言われると「え!そうなの?」みたいな感じで従来の教科書的歴史知識がアップデートされていきました。

またこの本は2017年に行われた講演・シンポジウムを書き起こしたものなので、基本的に話しことばの文章で書かれています。なのでサクサク読める。でも内容が薄いわけではない。とてもおトクな本に仕上がっていると思います。

話し手も、今や日本最高の正確&わかりやすい歴史の語り手、磯田道史さん(国際日本文化研究センター准教授)や、あの敵味方入り組んでて複雑そうな「応仁の乱」を新書にまとめて大ヒットを飛ばした呉座勇一さん(国際日本文化研究センター助教)だったりととても豪華。手に取った時から期待値高かったのですが、それに違わぬ面白さでした。

ということでこのブログでは、この本で”なるほど!”と思った箇所や”これは新鮮!”と感じた知識などを紹介しつつ、感想を書いていきたいと思います。

 

権力が多極分散する中世、権力が集中していく織豊期

ますは磯田さんによる「はじめに(=序文)」の部分から。日本中世(ここでは室町期を指す)は権力が多極分散していた、織豊期(織田信長、豊臣秀吉が覇権を握っていた時代)に至ってある程度権力が集中したとの記述がありました。

学校の歴史教科書からだと、室町時代には室町幕府があって、戦国時代で全国的に戦争が頻発する時代がきて、信長、秀吉がその混乱状況を”まとめ”に入って…みたいなイメージが得られるんですが、この序文を読んでいると「室町幕府の権力って相当弱いものだったんだな」と思います。同じ幕府とうたっていても室町幕府と江戸幕府の安定感は全然違う。後者の方がよほど盤石。自分の命と安全を確保するために必死だった室町時代の民衆と、豊かな文化を育んだ江戸期の民衆の行動の違いを考えれば納得です。

 

寄せ集め軍隊の悲しさ〜白村江(はくそんこう)の戦い〜

本の第一部は「白村江の戦い」について。基になる講演は倉本一宏さん(国際日本文化研究センター教授)によるもの。

白村江の戦い(663)とは、教科書にも必ず出てくる古代日本が戦った対外戦争です。戦いの概要について本の文章を引用しておきます。

唐と新羅(しんら)の連合軍によって滅ぼされた百済を復興するため、倭王権が兵を朝鮮半島に送り、唐・新羅連合軍と白村江をはじめとする朝鮮半島各地において激突し、大敗を喫したという戦いです。

悲しいのがこの戦いで倭(古代の日本)が敗れた理由。唐の軍勢は統制がとれ、訓練もされていた国家軍だったのに対し、倭国軍は各地方の豪族の配下の農民たち。武器もおそらく行き渡っておらず、訓練もなされてなかったらしいのです。武器といっても当時の資料(令義解(りょうぎのげ))によれば木の棒の両端を尖らせただけのものだったとか。

さらに、当時はまだ中央の王権も未発達だから、豪族の配下だった農民たちはいったい何のためために戦っているかもわからない。装備もなければモチベーションもない。こんな状態で戦わされた農民たちには同情を禁じ得ない…。

加えて、中世以降の武士ならば褒賞(ほうび)をもらえるかもしれないし、足軽でも「乱取り(民衆に対する略奪)」が行えるのでまだ見返りがあるかもしれない。(今の基準からすると倫理的にトンデもないが権力がヤワな中世だとしょうがなかった面も)。でも白村江の戦いに参加しても何の見返りもない。よく農民たちがはるばる朝鮮半島までついていったな、と思います。ほんと豪族たちはどんな手段を取ったんだろう。

 

国内統治の”手段”としての白村江の戦い

通常、この白村江の戦いは同盟国である百済を助けるために倭が軍を派遣したと説明されます。しかし講演者の倉本さんはこの戦いの真の理由は別になると考えています。引用します。

半島出兵のほんとうの理由は、必ずしも百済の救援ではなかったと、私は考えています。むしろ、敗れてもいい。敗れることによって、唐や新羅が倭国に攻めてくるかもしれないという危機感をあおることで、国内を一つにまとめ、自分の権力基盤を固めることができる。あるいは、邪魔な豪族を派遣して、死なせてしまうことも考えられる。それこそが、朝鮮半島に兵を送った理由だと私は考えています。

もしこれが倭の王権の真のねらいだったとすれば、異国で戦争に参加させられた農民たちはますます浮かばれない…。一方で、日本に強力な中央集権が生まれず豪族が割拠しているままなら、外国が攻めてきたときに、もっと農民(民衆)は悲惨な目に合っていた可能性があるのかも。強力な中央政府は必要悪なのかも。

先に紹介した「日本史のツボ」でもこの白村江の戦いのあとに、日本の国としてのアイデンティティ生まれたとの指摘がありました。

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白村江の戦いが大海人皇子生んだ?

白村江の戦いの9年後、天智天皇の後継を争って大海人皇子と大友皇子が戦った「壬申の乱」(672)が起きます。この戦いには大海人皇子が勝利して、天武天皇となるわけですが、この勝敗に白村江の戦いが影響していたと倉本さんは指摘します。

壬申の乱に勝利した大海人皇子の傘下にあった軍勢の大半は東国の兵士、敗れた大友皇子が頼りにしたのは、この疲弊した西日本の兵士でした。つまり、戦う前から、勝敗は明らかだったわけです。

白村江の戦いと壬申の乱。兵士が動員された地域に注目すれば、この二つの戦いがつながって見えるとはとても新鮮な指摘でした。面白い。

 

最後に

貧相な武器を持たされて白村江に派遣された農民たち。時代はずっとずっと下りますが、強力な装備を誇るソ連軍に対峙しコテンパンにやられたノモンハンの旧日本軍も彷彿とさせます。日本という国は民衆にきちんとしたリソースを配分せず戦争をする伝統がありますね…。

 

 

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※日本が兵站を軽視して戦争しがちなのは、南北朝時代でも見られた、という記事です。

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