硫黄は世界商品だった。
※前編の続き。
- 硫黄と銀が世界を制す
- 中世に日本の「中身」が成立した
- 交易は儲かるがゆえに危険
- 中国市場を獲得したかったペリー
- 方便としての尊王攘夷
- 方便としての欧米外遊
- 近代化がうまくいって調子にのった日本
- 戦後の開国・富国路線は吉田茂が敷いた
- 開国がすべての前提と考える必要がある日本
硫黄と銀が世界を制す
「世界商品」とは文字通り世界中の人々が欲しがる、あるいは必要とする商品。東南アジアの胡椒、カリブ海の砂糖、中国の茶・陶磁器・絹など。現代なら日本の自動車、中東の石油など。日本が有史以来比較的平和だったのは、島国だけだったからでなく、世界商品に乏しかったから(外国が侵略して来なかった)。
そんな日本に10世紀、世界商品が登場する。それが硫黄(これは知らなかった!)。宋で火薬が発明されたから硫黄への需要が高まった(そのころの中国では硫黄が取れなかった)。宋は西夏という国と戦争を繰り返しており、火薬が必要だったし、モンゴル帝国のクビライが日本を攻めたのも硫黄が目的とも言われている。
16世紀の日本の世界商品は銀。石見銀山が発見され、灰吹法(はいぶきほう)という精錬技術を得て、増産にも成功。この銀山は日本の銀の五分の一を産出。またこのころの日本の銀は世界の銀の三分の一を占めていたとも。
織田信長が鉄砲を買えたのも銀があったから。銀を求めてアジア・ヨーロッパから商人が殺到した。
中世に日本の「中身」が成立した
出口さんは日本の中世を「平安末期から戦国時代まで」とする。この中世に日本の「中身」が成立した(骨格の成立は7世紀の「日本」「天皇」などの国号・称号が成立したころ)。中身とは日本独自の精神性・文化のことで、それらが成立するのに大きな役割を果たした触媒は禅と阿弥陀経(浄土教)。日本文化を代表するお茶、お花、能狂言はみな禅や阿弥陀信仰の影響を受けている。
交易は儲かるがゆえに危険
明はそれ以前の宋や元と異なり、交易を嫌い、海禁政策をとっていた。江戸幕府もそれをならった、と考えられる。
また交易は非常に儲かる。足利尊氏が貿易船二艘出しただけで天龍寺の建設が賄えたほど。仮に江戸幕府が交易を許すと、各藩は経済力をつけてしまう。力をつけて幕府をおびやかしては困る(新田開発や特産品開発程度の経済力アップはたかがしれている)。なので鎖国した。
しかし鎖国のせいで江戸時代の日本のGDPは停滞した。1700年よりも1870年の方が世界経済に占めるGDPシェア、人口シェアも落ちた。人々は移動の自由もなく生産性を高めるのはそれぞれの土地でやるしかなかった。凶作になっても食糧をよそから持ってくることができず、飢饉に直結した。日本人の平均身長・体重は日本史上最も小さくなった。
←しかしこれが本当だったとしたら、江戸時代はなんと変化のないつまらぬ時代だったことだろう…。実際のところはどうだったのだろうか。
中国市場を獲得したかったペリー
ペリーの黒船来航のころアメリカ。軽工業が発達し、製品輸出のための市場を欲していた。ペリーは英国に対抗し中国市場を獲得すべく、太平洋航路を開きたい。そのため日本を拠点としたい。そのための最新鋭の軍艦で日本にやって来た。
ペリーに相対したのが老中・阿部正弘だったのは幸いだった。彼はアヘン戦争のことも知っており、日本が開国して豊かになり、強い軍隊を作らないと清のようになってしまうこともわかっていた。
方便としての尊王攘夷
しかし一方で薩長を中心に尊王攘夷思想も流行ってしまった。ただ薩英戦争、下関戦争で外国にボコボコにされ、薩長の指導者(大久保や伊藤)も目が覚めた。でもとりあえず幕府を倒すまではそのまま尊王攘夷で進み、それが実現したら明治天皇を東京に移し、開国・富国・強兵という阿部正弘のアイデアを実現していった。
方便としての欧米外遊
倒幕に成功したが新政府内にはまだまだ尊王攘夷を捨てられない人がいた。そのため大久保らは彼らの価値観を転換させることを目的として、欧米外遊を決める。それが岩倉使節団。大臣の半分以上が二年も欧米に外遊するという無茶な話だったが、リーダー層の価値観を転換させるのには奏功した。
また岩倉使節団は日本と世界の国力を正確に分析していた。使節団がめぐった国の順番はGDPの大きさ順になっている(アメリカ→イギリス→フランス→ドイツ)。
一方、実務官僚レベルの人材を養成するために作られたのは東京帝国大学だった。そこに高い給与を払って外国人教師に来てもらい「駅前留学」できるようにした。
近代化がうまくいって調子にのった日本
これらの方策がうまくいって、日清日露、一次大戦まで乗り切った日本だったが、そのために逆に傲慢になってしまった。開国し富国したがゆえの強兵だったのに、1933年国際連盟脱退、1936年ロンドン海軍軍縮条約からの脱退と日本は世界で孤立を深めていく。日本は自らを客観視できなくなっていく(岩倉使節団にみられるように明治の日本は世界と自らを客観視していたのに)。
←この辺りの歴史認識は司馬遼太郎などとも共通である。
戦後の開国・富国路線は吉田茂が敷いた
敗戦後、日本の開国・富国路線は吉田茂がグランドデザインした。しかし強兵はアメリカに任せた。日本は経済最優先とした。
開国がすべての前提と考える必要がある日本
日本には近代文明を支える石油・鉄鉱石・ゴムの三資源がない(ゴムも重要なのか!)。日本が繁栄するには、今後も開国・富国というグランドデザインを追求する必要がある。
2回に渡って出口さんのお話のポイントをまとめてみました。やはりもともとがビジネスマンだからだろうか、経済・交易に力点を置いた歴史の流れの説明になっている。これは逆に日本の歴史の授業が政治史に偏りすぎているからそう思うのかもしれないが。
これからも機会を見つけて出口さんの本を読んでみようと思います。
※前編はこちら。
※尊王攘夷思想を産んだ水戸藩。その背景には水戸藩の特殊事情がありました。