岩手県北上市。新幹線の乗り換えだけだともったいない。
関西人の憧れの土地 東北
お盆前の週末、秋田県横手市に所用があって1泊2日で出かけました。帰りはローカル線(北上線)で東北新幹線の接続駅である北上駅まで戻ってきたんですが、予約していた新幹線まで3時間の空きが。ネットで調べる限り、駅付近で時間を有効活用できそうな施設はなさそう。それならばと、ここの歴史や文化をざっくり知りたいということで北上市立博物館に行くことにしました。その土地を大づかみにするには、その土地の博物館に行くのがやはり一番てっとり早いです。
あと、関西に生まれ育った自分にとって東北ってやはり旅情を誘う土地なんですよね。このあたりの気分を歴史作家の司馬遼太郎がうまく書いてくれています。
奥州というと、私のように先祖代々上方だけを通婚圏や居住圏としてきた人間にとっては、その地名のひびきを聴くだけでも心のどこかに憧憬(しょうけい)のおもいが灯る。
「街道をゆく 陸奥のみち」より
わかる、わかるなあ、この気持ち。 関西にはほんと東北人が少なくて、京都の大学に通っていた頃にちらほら出会えた程度。いつも歴史の本を読んでは「いったいどんなところなんだろう」と思いを馳せていた土地でした。なので東北に来たからには、この土地のエキスみたいなものをいっぱい吸収して帰りたい。
しょうがない タクシーを使おう
博物館まではGoogleマップでみる限り駅から徒歩は無理っぽい。駅からバスで行けないだろうか、と思い博物館に電話で問い合わせてみました。博物館の男性が親切な教えてくれました。
徒歩…サッサっと歩くと30分。ゆっくり歩くと45分。
バス…駅から博物館までのバスはない。
タクシー…1000円くらい。乗るなら(北上駅)東口からの方が安いと思いますよ。
とのことでした。
その日は思いっきりの夏晴れ。東京ほどではないにせよ、東北といってもまだまだ暑い。「ちょっと30分歩くのはないな〜」と思い、プチ贅沢してタクシーでゆくことに。
アドバイス通り北上駅の東口に回って客待ちしているタクシーに乗り込みました。
駅から10分弱、料金は1000円を少し超えて博物館に到着。
ちなみに入館料は500円。荷物はロッカーに預けました(無料)。でもロッカーは4つしかないので混んでるとうまってるかも、です。
中尊寺以前に東北を牛耳っていた寺
さて、展示されていた順番に内容を紹介していきます。
関西生まれの自分にとって東北の寺といえば、まずはあの金色堂で有名な「中尊寺」。しかしその中尊寺より以前に、東北の仏教界を統率していた大寺があったといいます。
それが国見山廃寺(くにみさんはいじ)。今は自然の姿に帰ってしまいましたが、かつて、北上川東岸の国見山(標高240m)にあった平安時代の山岳寺院です。
国見山の尾根に伽藍が建てられ、ふもとには僧侶が生活を営む集落があったそうです。
博物館には精巧なジオラマがあって、その寺院の在りし日の様子をしのぶことができます。
この山に伽藍がそびえる感じ、関西でいうと比叡山に非常に近いですね。ふもとに僧侶が過ごす集落があったというのも、滋賀県大津市坂本の里坊を思わせます。
”間引き”から赤ちゃんを救おうとした僧侶
この日、ちょうど期間限定の企画展として
幕末の頃、この地に生きた僧侶に関する展示を特集していました。僧侶の名は「慶念坊(きょうねんぼう)」
当時の農民は凶作や飢饉で困窮すると、”間引き(=授かった赤ん坊を殺す)”ことをしていた、といいます。慶念坊はその行為を戒め、自分でも53人もの赤ん坊を育てたとか。
ちなみに慶念坊が信奉していた親鸞の浄土真宗が間引きを戒めていました、浄土真宗の信者の多かった越後(新潟県)は間引きをしなかったため、明治期の人口がいちばん多かった、と聞いたことがあります。
また司馬遼太郎は紀行文「街道をゆく 北のまほろば」で「東北には(気候的に)稲作は向かなかった。縄文時代の狩猟採集で、栗や鮭などを食していた方がよかった」という旨のことを書いています。支配層にとっては税の取り立ての都合上、稲作の方がよかったのかもしれませんが、東北の人々にとっては、稲作重視の中央の政策は無用に辛い施策だったのかもしれません。もちろん今は米の品種改良も進み、東北は全国有数の米どころではありますが。
北上川東岸の縄文遺跡
縄文時代の遺跡として「樺山遺跡」「八天(はってん)遺跡」が紹介されていました。いずれもこの地を南北に貫流する北上川東岸の高台に営まれた縄文人の生活跡です。
例えば八天遺跡と北上川との関係はこんな感じ。
洪水を避けて少し高いところを住居に選んだんでしょうか。
こちらは樺山遺跡のモニュメント(配石)。中央の立てられた細長い石は川原石、その周囲には山石が並べられています。縄文人の墓だと考えられているとか。現代人の感覚からいってもいかにも墓という感じですね。
日本は簡単に一つではない〜”蝦夷”の人々〜
古墳を作り続けた人々
こちらは北東北の古墳群の一覧。畿内など中央が奈良時代に入って古墳を作らなくなった時代でも、この地の人々は古墳を作り続けていたらしいです。
多賀城とは今の宮城県にあった平安期朝廷の出先機関。この多賀城跡の碑には、この地のことを蝦夷国と記載してあります(蝦夷とは北辺の人々の蔑称とも)。ただこういう古墳の分布図などを見ていると、この北上辺りから北には、中央政府に素直に従おうという意識のない、別種の人々が住んでいたんだろうなあ、ということを強く思います。関西あたりにいると「平安初期、坂上田村麻呂が蝦夷を制圧におもむいた」なんて記述はさらっと読めるんですが、ここ東北にくると、坂上田村麻呂なんて侵略軍の長であり、この地の人々は征服される側だったんだな、と少し苦い感情を抱いてしまう。日本ってそう簡単に一つにくくれないです。
装身具と武器から見る独自の文化
蝦夷の人々の装身具と武器の展示がありました。
装身具については、西アジア由来のガラスのもの、島根県由来の瑪瑙勾玉(めのうまがたま)など西日本を経由して入ってきたものがあります。特筆すべきなのは金属製の装身具(腕輪)に用いられていた錫(すず)。錫は大陸の沿海州産と考えられているそうです。さすが東北の地。ロシアが近い。
武器の中で「蕨手刀(わらびでとう)」と呼ばれる刀。柄の部分と刀身(切るところ)が緩やかな「く」の形状をしている。これは馬上から敵を切りつけるのに好都合だったと考えられているそうです。この騎馬に慣れた蝦夷の人々の戦い方がのちの武士の誕生に影響を与えたとも。東北は馬の産地ともいいますし、蝦夷を攻めにいった朝廷軍は蝦夷の騎馬の戦法に苦しめられたのかも。
江戸時代 ここにも一つの境目が!
伊達と南部の藩境争い
時代はずっと下って江戸時代。この北上市辺りでは南側の伊達藩と北側の南部藩で藩の境をめぐって争いがあったんだとか。今の地図に落とし込むとこんな感じです。
藩境に沿ってそれを示す「大塚」も作られたというんですから「へえ〜!」でした。こんな事実は知らなかった。
平安時代の朝廷と蝦夷もこの辺りでせめぎあっていたし、江戸時代もここで藩同士のせめぎ合いがあった、と。北上市辺りに境界ができてしまう必然的な理由でもあるのだろうか。いずれにしても面白い土地です。
”馬”を大切にする住まい
260年続いた江戸時代。南の伊達藩と北の南部藩との間で住居様式が異なっていたらしいです。
※下記の写真は博物館に隣接している「みちのく民俗村」で撮影
こちらは伊達藩側の住居「直ご家(すごや)」。
それに対してこちらは南部藩側の「曲り家(まがりや)」。
文字通り”曲がった家”。母屋の台所から馬屋の様子がよく見える作りになっています。馬を大切にした馬産地がゆえにこういう作りになったんだとか。蝦夷の騎馬文化といい、北東北の暮らしと馬は密接に結びついていたんですね。いやあ、面白い。
ちなみに「みちのく民俗村」のこの曲り家には馬の代わりにヤギが飼われていました(笑)。
北上の母なる川=北上川
江戸時代、北上市の北上川には「黒沢尻川岸(かし)」という中継港があって、上流から運んできた米・木材・銅などを大型船に積み替える作業を行っていました。最終的に物資を積んだ大型船は河口の宮城・石巻を目指していました。
2種類の船(艜(ひらた)船・小繰(こぐり)船)があってどちらも船底は平らでした。
船底が平らな船というと、京都に住んでいた自分としては高瀬船を思い出します。やはり川をゆく船は底が平らじゃないとうまく進まないのでしょうね。
縄文人たちも北上川を見下ろす高台で生活していたし、江戸時代では水運に使われたりと北上の人びとにとって、北上川って母なる川なんだろうな、と勝手に想像したりしました。
で、博物館からの帰り、タクシーで北上川の堤防に寄ってもらって川の写真をパチリ。
上流で夏の大雨があった後だったからなのか、水量も多く、等々と流れていました。両岸の緑も映えて美しい川です。北上市には「展勝地(てんしょうち)」という「みちのく三大桜名所」の一つにも数えられるお花見スポットがあります。ぜひ今度は春に訪れてみたいです。
※東北新幹線に乗りながら、東北の地形を感じてみよう!という記事です。
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※北上駅から横手駅まで。ローカル線で東北を横断した時の記事です。
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