10分あれば江戸時代にタイムスリップ。
大手町の”地名の由来”を訪ねて
大手町という駅があります。丸ノ内線、半蔵門線、千代田線、東西線、都営三田線の5つの地下鉄が乗り入れていて、地下道は網目のように四方八方に伸びている、東京地下鉄の中でも相当存在感のある駅です。
なので、この駅を利用したり通過したりしたことのある人はものすごく多いと思うんですが、その大手町という駅名の由来になった大手門に行ってみたことのある人は、案外少ないのでは。
今回は、大手町駅でのちょっとしたスキマ時間で立ち寄ることのできる「江戸城大手門」についての記事です。
出口は間違えぬよう!”C13b”で
大手町駅の地下空間は本当に広い。ひと口に大手町駅と行っても、地上への出口を間違えるとエラい目に合います。
大手門に行くならば、下記の図でわかるように「C13b」の出口を使うようにしましょう。
そうすれば、目指すべき大手門は地上に上がった瞬間、目に入ってきます。
江戸城の正面は”東京駅方向ではない”
大手門とは、お城の正門のことです。江戸時代は、江戸城(現皇居)の表玄関は、大手町駅方向だったんですね。
現代だと、江戸城の表玄関は、行幸(ぎょうこう)通りが立派なこともあって、ついそちらが正面と思いがちですが、江戸城の設計者からすれば正面は大手門=大手町方向となります。
ただ、東京駅は大正時代、新たな国の表玄関となるべく造られた駅です。なので、東京駅と皇居を結ぶ行幸通りが立派に造られており、この通りのある方が皇居の正面ぽく見えるのにも、それなりの理由はあります。
大手門は2つの門から出来ている
こちらの写真を見るとわかるように、大手門は2つの門が組み合わされています。
最初にくぐる門を高麗門。奥にある門を渡櫓(わたりやぐら)門と言います。
こちらは高麗門を内側から見たところ。
門の前では、皇宮警察の方による荷物検査が行われています。念入りにカバンをチェックする人もいれば、「はいはい〜」という感じで、流し見してる人もいました。
高麗門は江戸時代のもの
現存する高麗門は、1657(明暦3)年の明暦の大火(振袖火事)後の1659(万治2)年に再建されたものです。
関東大震災も、太平洋戦争の空襲をもくぐり抜けてきたのだから大したものです。
ちなみに、1657(明暦3)年の「明暦の大火」というのは江戸時代の歴史を理解するときに、第一級に覚えておいた方がいい出来事。江戸城外堀の内側の大半が焼け、日本史上、最大の火事も言われています。明暦の大火で焼けて移転した屋敷や寺社は数知れず。江戸の街の構造を根本から変えてしまった大火災でした。
渡櫓門は昭和のもの しかし江戸時代のものも…
こちらは渡櫓門。
江戸時代の門は残念ながら昭和20年の空襲で焼失しています。現在の門は昭和41年に復元されたものです。
こちらは焼失する前の、江戸時代の門にのっかっていた鯱鉾(しゃちほこ)。
高麗門と渡櫓門のあいだに飾られています。
ここで見逃せないのが鯱鉾に刻まれた「明暦三年」の文字。
紛れもなくこの鯱鉾が江戸時代に鋳造されたことを伝えています。
江戸時代の人もこの鯱鉾に触っていたかと思うと、ありがたい…。
大手門は”戦争のため”の設備でもある
漆喰の壁に空いている穴は狭間(さま)。
いくさのとき、この穴から外側の敵に向かって鉄砲で射撃しました。兵が狭間の高さまで上って攻撃できるよう、手前は石段になっています。
こういうのを見ると、江戸城が戦闘用に造られた施設である、というのがよく分かりますね。
最後に
大手町のピッカピカの地下道やビルからほんの少し歩いただけで、400年タイムスリップできるのが東京というのが街。
またどこかの駅を起点にしたプチ歴史散歩の記事を充実させたいと思います。