歴史探偵

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本「知性は死なないー平成の鬱をこえて」感想④〜「人間」とはどういう存在か〜

躁うつ病とは何かーを通じて「人間」に迫る。

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この本の第3章は「躁うつ病とはどんな病気か」と題されている。本の一章を割いて與那覇さんなりの方法でこの精神病の分析を試みている訳だが、その過程がとてもスリリングで面白い。與那覇さん自身の経験はもちろん、精神病理学、哲学、さらに人間が操る(と人間はふつう思っている)言語、そして人間を物理的存在としてあらしめている肉体…様々な領域に思考を巡らせつつ、一つのオリジナルな結論を導こうとしています。

なかなか難しい論考が展開されますが、自分なりにポイントをまとめておきます。なお青字は自分の感想・考えです。

 

躁うつ病の経験から見えてきたこと

與那覇さんがかかった精神病は「躁うつ病(双極性障害Ⅱ型)」。これは”躁”というほどではない「軽躁」の状態と、うつ状態を循環的に往復すること示す病名。ちなみに3月30日は「世界双極性障害デー」に定められている。これは存命中に躁うつ病と診断されていたゴッホの誕生日だから。また躁うつ病の有名人と言えばニルヴァーナのカート・コバーンがいる。

與那覇さんの経験によれば躁状態は仕事の能力を高めてくれた。異様なほど記憶力が高まった。仕事にはうってつけの「軽躁」。逆に言うとうつ状態の時は記憶力等の能力が下がる。

現在の大学という職場は流動性が高い。自分自身が持っている能力(発想力、コミニケーション力、社外の人脈等)を磨き、次々に職場をわたり歩ける人材になることが必要だと、病気になるまでの與那覇さんはそのように考えていた。しかし躁うつ病を患い、うつ状態の時の自分の能力が”内側から消滅する”ような経験をした。これは自分の理解を超える経験だった。この経験が與那覇さんを「躁うつ病が存在することの意味ってなんだ?」という問いに向かわせた。

 

精神病理学と哲学から考える

精神病理学との出会い

入院生活の中で統合失調症の友人を得た與那覇さんは、彼らに世界がどうみえているのか理解したいと精神病理学の本を手にとる(『臨床哲学講義』木村敏)。そこで語られている「つつぬけ体験」に注目する。

つつぬけ体験は「自分の頭のなかの考えがすべて、周囲の人びとにつつぬけになっている」とうったえる症状のこと。

しかしこの体験はふつうの人と無縁の現象ではない。「反対するぞ!」と意気込んで参加した会議で、周囲の空気に飲まれて賛成に回るなどは似たような体験と言える。そんな経験をした時、いつもの「この自分」がおこなった行為とは思えない。むしろ自分と周囲の人びと全体を包括した大きな集団の無意識のようなものがあって、それが一時的に自分の身体をジャックしてそういう行動をとらせたという方が実感に近い。

一時的にではなく、自分がなす行為のほぼすべてについて、このようにしか感じられなくなってしまった状態が、統合失調症。 この「自分が自分でないような感じ」は苦痛。「自己とはなにか」が分からなくなり身体は生命が危機にさらされる。しかし精神病理学が教えてくれるこれらもメッセージが與那覇さんをもう一度、思考に向かわせる。

 

精神病理学とハイデガー

「私」という輪郭自体があいまいになっている精神病者を治療するために精神病理学が参照したのは「自己が存在するということ」について考えぬいたドイツの哲学者・ハイデガー。

與那覇さんが「私」について思考をめぐらせているところを本文から引いてみる。

「私」とは「私は與那覇潤という、躁うつ病の体験を執筆中の元大学教員で、発病まではこういう経験をたどって……」といった精神活動のはたらきのことであり、それが失われてしまったら、たとえその「私」の容れ物だった身体のほうがのこっても、もはや私はそこにいない、という考えかたもできそうです。

私とはつねに、「自分も思考や身体をあやつっているのは、ほかならぬこの私だ」と思いつづけることでのみ私でいられる、いわば自転車操業のようなかたちをしている。

→この後段の「私」とは自転車操業のようなかたち、というのは非常に重要な指摘だと思います。ふつうの人間は、自分は自分の考えたいことを考え、やりたいことをやっているような気がしている。自分は自分の身体の司令塔であると自然に思っている。 しかしそこには何らの根拠もないし、何かが証明してくれるものでもない。そのくらい自分が自分でいられるというのはあやふやなもの。

ハイデガーはそういう「自分も思考や身体をあやつっているのは、ほかならぬこの私だ」と思いつづけることでのみ私でいられる「私」のありかたを「現存在」とよんだ。これにたいして、物理的に存在しているところの私の身体や、座っている椅子、叩いているキーボードといったもろもろは「存在者」とよんだ。

そしてハイデガーはあるものが「存在する」ということは、たんに存在者としての物体があることとはちがう、と考えた。たとえばキーボードがキーボードとして存在するのは、①ワイヤレスで接続されたPCの本体と、それと一体のディスプレイがあるからであり、さらには②所有者である私に、文章をタイプする意志と能力があるから。 ①や②が欠けてしまえば「なんだか表面がでこぼこしている板」は存在しても、もはや「キーボード」は存在しない。與那覇さんは精神病理学者の木村敏氏の表現を借りている。

この「表面がでこぼこしている板」は存在というもの(存在者)であり、その物体が「キーボード」としてあるという事態が、存在するということ(存在それ自体)です。その両者を媒介するかたちで存在しているのが、「いま文章をタイプしている私」という現存在(存在のあらわれる現場)になります。

→このあたりはなかなか難しい。「あるものが存在する」というのは”存在があらわれる現場”としての人間=現存在を前提にしないと捉えられない事態ということか。

存在というものは「私」を媒介しないと生じない事態。しかしその存在を成り立たせている「私」=現存在も、私をとり囲むさまざまな存在者や、ほかの「私」を持っている他者とふれあうことで、輪郭がたえず変動してしまう、あいまいな存在。だからその「輪郭」が崩れると精神の病を引き起こす。

木村氏の挙げている例は「離人症」。自分の身体が自分のものだと思えなくなってしまう神経症で、あらゆる遠近法が根底から狂ったような症状を示す。景色をみても遠近感がなくなる。これは患者が純粋に存在者(存在するもの)だけを認知するようになったことからくる。病気でない人間は、窓の外をみたときに「もの」だけをみたりしない。「あの山はずいぶん遠いなあ」など「もの」と自分との”あいだ”の関係も合わせて把握する。それができなくなるのが離人症。

→「もの」を自然に認知できなくなるとき、その認知の主体である「私」の輪郭が崩れている。

 

言語vs身体 人間に迫る際の2つのアプローチ

日本の戦後の論壇の事例

「人間がどういう存在か」について考えたいとき”言語”から迫るか、”身体”から迫るか2つのアプローチがある。

  • 言語…ことばにはものごとを理詰めで分析していく作用がある。日本の左翼思想は「言語派」。例えばなぜ先の大戦が起こったのか、という理由を分析的に語る。資本主義の行き詰りを帝国主義で解決しようとした、のように理屈で語る。
  • 身体…「どれだけことばで語ろう、とらえようとしても、けっしてとりつくすことのできないなにか」というニュアンスで用いられる。「腑におちない」など典型的な表現。江藤淳のような保守の知識人は「身体派」。「わかりやすく分析してしまうことばの作用よりも、そうやって分析しても語りつくせずにのこりつづける、違和感や情念の問題」に注目する傾向がある。文学は「理屈としては正しくても、すなおに身体がのみこめない」状況における、人間の苦悩や葛藤を活写するためにある

→文学は言語を使っているといっても人間に対する身体的アプローチということか。かつて作家・坂口安吾は「文学とは文学でしか表現できない人間の問題を描くもの」といった。それと同じことかも。

 

21世紀の思想界は「言語」→「身体」へ

ハイデガーの思想は変遷する。「人間(現存在)は、ほかの存在者に意味を与え、あやつる中心である」といった発想自体がまちがっていた。「じつは人間のほうが、きちんとしたかたちで存在を把握することができず、存在の仮象としての『ことば』にあやつられているのではないか」という思考法にきりかわっていった。

でもハイデガーは最後まで「たんなる存在者にはとどまらない、ほんものの存在そのものをまるごととらえうる『真の言語』とでもいうべきものがあるのだ、と言いたがっていたふしがある。

→言語or身体で言うとハイデガーは最後まで言語派だったということか。

このハイデガーの真の言語がある、という考え方について哲学者・デリダは「そんなものはない。たんに人間には、あるかのように思いたがるくせがあるだけだ」と言い切った。デリダは言語派最後のスーパースター。真の言語はないが「どんなことばを使っているか」しだいで、人びとのおこなう議論のかたちが、いくらでも左右されてしまう。

デリダが提唱したのが「脱構築」。脱構築とは、議論の前提としてあることばを選んだとき、「それによって自分はなにを前提にし、別のなにを今回は議論しないことにしたのか」を批判的に再吟味していく姿勢のこと。例えば「男女」ということばを使うと、無意識のうちにLGBTの人たちを議論の枠外においてしまうかもしれない…それでいいのか…とことばの使い方を問い直す姿勢。

しかし他人のことばづかいを脱構築ばかりしていると、自分も脱構築されるのが怖くて意見が言えなくなってしまう。そうなると言葉より身体を重視する思想の方に一日の長が生まれる。

かくして21世紀の日本では保守、右翼、左翼問わず身体派の知識人が力を持つようにまった。文藝批評家の加藤典洋氏、身体論を専門とする鷲田清一氏、合気道の道場主である内田樹氏などがその代表。

 

言語と身体の二分法を脱構築せよ!

精神病を患った與那覇さんがわかったこと。

言語と身体の二分法がどういう無理をしているかを自覚したうえで、それでも有効な局面にはこの二分法をつかっていこう、ということ。

言語が理性に近く、感情は身体に近い、という直感もアテにはならない。ムカつくという感情が先にあればそれを正当化する「ことば」はいくらでもあふれてくる。そのような状況で言語の力で身体を統御しようとしても、絶対にうまくはいかない。

親の仇や独裁者などの暗殺に向かった刺客が、いざ当人を前にしてたじろいでしまうようなシーン。これは「こんなやつは殺してかまわない、殺されて当然だ」という「言葉」で組みあげた論理が、相手の「身体」を目の前にしてしまうと、自分のほうの「身体」が反応して、相手の身体を抹殺することにフリーズがかかっている状態。言語のほうが感情的になって暴走するのを、身体が抑制する場面。

→このことはストレスがかかった人間の状況を考えても分かる。仕事では理性や言葉が欠かせないが、それらを駆使して仕事をしてストレスがかかってくると、身体が悲鳴をあげ始める。使う言葉も理性的でなくなる。そこでしっかりと身体をケアなどしてストレスを取り除くと、使う言葉も落ち着きを取り戻すことがある。

言語も身体も、ともに狂ってしまう可能性があることをみとめ、両者の関係が機能不全におちいるメカニズムを探求すること。この態度こそ與那覇さんが自らの病を理解するために必要だった。

 

躁うつと言語・身体との関係

躁(軽躁も含む)状態に入った人間のあり方は「身体」よりも「言語」の方に極端に寄ってくる。

事例:躁状態の人間は暴言をはく、言い方がきつくなる。いつもならそこまでは言わないのに、というようなことを言ってしまう。

しかし身体をふり捨てて言語で組み立てられた論理一辺倒にかたよっていくあり方が歴史を変えることも。

事例1:ソビエト連邦の最高指導者だったニキータ・フルシチョフ。前任者のスターリンによる残虐な統治の実像を暴露し、その存在を否定した。「空気をよまずに筋をとおす」。身体がかけるブレーキを無視して論理を追求する、フルシチョフの躁的な気質が冷戦下の世界を変えるきっかけをつくった。

事例2:戦時下の英国首相だったウィンストン・チャーチル。ナチス・ドイツに対しては宥和政策しかないという時代の大勢にあらがい、「けっして降伏しない」をスローガンに国民を指導、戦争に勝利した。彼のような非妥協的なリーダーでなければ戦争に勝てたか疑問。

ただフルシチョフもチャーチルもその非妥協的態度が災いし、その後、権力の座を追われた。言語というものを自分の頭のなかだけで使っていると、往々にしてこのように「自分」のありかたを硬直させていく副作用をもたらす。

 

言語は自分の輪郭を解体させる作用も持つ

フランスの哲学者・デリダの「エクリチュール」。これは「書かれたもの」という意味のフランス語。「人間が主体的に言語をあやつるのではなく、むしろ『書かれたもの』のほうが先にあって、人間はそれを追いかけるだけの存在である」といったイメージを、わかりやすく伝えるために使用された言葉。

エクリチュールの事例として「有名人のツイート」があげられる。自分(A)が「なるほど!」と思える有名人のツイートをリツイートすると、自分(A)のフォロワーにそのツイートが流れていく。するとフォロワーはそのリツイートされた内容が、Aの内面の考え、と思うようになり、自分(A)もその考えがもともと自分が考えていたように思うようになる。しかしその有名人のツイートも、誰かのツイートや報道をいくばくかコピーしつつ、つぶやかれている。

身体の内側に閉じこめられている「ほんとうの自分」らしきものは誰にも理解されない。他の人が理解する「自分」は書いたもの(エクリチュール)をとおしてイメージとしてかってに広まっていく。このように書かれたものをつうじて「自分」というものがひとつの像をむすぶというより、多様なイメージへとひき裂かれていく作用のことを、デリダは「差延(さえん)」「散種(さんしゅ)」といった用語で表現した。

いかに人間の自己、主体性がアイマイなものか、ということがわかる。自分の主体性、自分の内面をカチっとしたものとして表現しようとしと作文したら、その作文がまた自分の内面を作り上げることになる。

このように自分の頭に沸き起こる言葉をはき続けることは、ある種、自分の輪郭を解体させる作用を持つが、この状況を快感に感じられるのが躁の人。しかしそのはき続けられる言葉が本人も論理の筋を追えないところまで身体を外れてコースアウトすることも。

 

性愛は精神活動が身体の拘束を抜け出すもの?

精神病理学者・木村敏によれば自己には2つの側面がある。

  • 「ノエマ的自己」…たったひとつしかない身体。知覚の対象とされるもの。肉体としての自己。
  • 「ノエシス的自己」…ことばで構成される精神活動のはたらき、知覚する行為としての自己。精神としての自己。

性愛は自分と他人の身体を重ねあわせることで、ノエマ的自己の拘束を抜け出そうとする営み。

このように自己とはほんらい「自分の身体」にはおさまらないものであり、ときとしてその身体を超え出ようとするものである。しかしその「超え方」のバランスが崩れたとき、さまざまな種類の精神病が生まれる、と考えることができる。

 

身体としての自己が反逆する

うつ状態の人間のあり方は「言語」よりも「身体」の方に極端に寄ってくる。先ほど見たようにエクリチュールによってひき裂かれていく自己には際限がない。身体を離れて無限に広がっていくかにみえた「自分」というものの輪郭が、あるとき破綻してもとの身体の大きさまで縮んでしまう…これが「うつ転」(躁からうつへの急変)なのではないか、というのが與那覇さんの実感。じっさい、うつ状態になると、いわば言語で動いている自分の意識にたいする「身体の自己主張」とでもいうべきものが起こる。頭では「おきあがろう、起きあがろれ!」と指令を出しているのに、手足が持ち上がらず、布団から出られない。

また與那覇さんはミイラのように毛布を身体に巻きつけて、そのなかで震えていたことも。これは自分の身体というかたちの、自己の輪郭をもう一度はっきりさせようという衝動がそういう行為をとらせたのではないか、と推測している。回復された今では、身体の輪郭をいちばん実感できる、という理由で水中でのウォーキングに取り組まれている。

 

最後に

要点をまとめながら與那覇さんの文章を丹念に追っていくと、人間は身体と精神にきっぱりと分けられるものではないこと。しかしその二分法は往々にして有効なので、その区分の限界を意識しつつ、運用するのがいいこと。自分が自分であって、自分をコントロールしているという”感覚”は致命的に重要なものである、ということなどが分かってきました。またハイデガーやデリダなど著名哲学者の注釈としてこの本を読むのも有意義。抽象的な概念(エクリチュールなど)を具体的事物(ツイッターなど)に即して噛み砕いてもらえるので、非常に手応えのある理解が得られます。

 

※「知性は死なない」感想ブログです。

www.rekishitantei.com

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