この本を読んで「荘園」というものがようやく分かった。
この「日本史のツボ」のうち、ひときわ分かりやすく面白いのが「第三回 土地を知れば日本史がわかる」の章である。
自分は中学以来日本史を勉強してきて、いろんな本で「荘園」についての説明を読んできたが、この「日本史のツボ」の説明ほど分かりやすものには出会ったことがなかった。読んだときは、まさに頭の中の霧が晴れたような気持ちがした。日本史で大学受験を考えてる人にも激しくおススメしておきたいくらいです。
さて、ではその「荘園」を含む日本の土地制度の移り変わり(古代〜鎌倉時代)について「日本史のツボ」からまとめておきます。
「律令制」「公地公民」はフィクション?
高校までの日本史で習う事柄に律令(古代の法律体系)制度に基づく「公地公民」というのがある。
- すべての土地は公=天皇のものであり、土地の私有は認めない。
- 班田収授(はんでんしゅうじゅ)法の下、ひとりひとりに耕地(口分田(くぶんでん))が与えられ、その田から税を収めさせた。
というもの。
この古代の公地公民の土地制度はやがて崩壊し、私有的な荘園が生まれてくる、とよく教科書には書いてあった。
しかし著者の本郷和人さんによれば、この説明はほとんどフィクションに近いという。なぜならこの制度を実施しようと思うと、全国規模で人口と土地を把握するという行政能力が必要だから。こんなきめ細かな行政が当時行われていたと考えるのは難しい。
では実態はどうだったか?
「取れるところから税を取り立てる」という収奪的な支配だったのでは、というのが著者の見立てである。
土地を開いたものがその土地を自分のものにするという「現実」があり、「三世一身法」(開墾した土地は子、孫、曾孫の三代にわたって私有していい)や「墾田永年私財法」(開墾した土地は私有してよい)などの法はその実態を追認していくプロセスであった。
律令は現実に適用された法制度というよりも、古代の天皇=国家が掲げた理想の国家像であった。ただその建前も、日本にとって安全保障上の脅威だった唐の国力が弱まるにつれ、崩れていく(私有地=荘園が増えていく)。
「荘園」って要するに何ですか?
荘園とは、より地位の高い人に「口利き」を依頼することで守ってもらう私有地のこと。
土地を開発する当事者がいる。しかし開発した土地を奪いにくる人間がいる(例えば当該地域を治めている国司など)。すると開発した当事者は土地を奪われてはかなわない、ということでその国司を黙らせることのできる中央(京都)の貴族や寺社に保護を求める(=口利きを依頼する)。そして保護してもらう見返りに毎年定められた量の年貢を送る。よく教科書で「土地を寄進する」と表現されているのは、この口利きの依頼のこと。この場合の保護を受ける現地の当事者は「下司(げし)」という。
またその口利きを依頼された貴族に実力がなく、土地を保護できないときは、さらに上位の大貴族に保護を依頼する。その場合、保護を依頼する貴族を「領家(りょうけ)」、依頼された大貴族を「本家(ほんけ)」という。本家となるのは天皇家、摂関家、伊勢神宮、賀茂神社など。
公有地=公領も仕組みは同じ
公領(こうりょう)と呼ばれる公有地には「公地公民」の原則が生きている。この公領を支配するのが「国衙(こくが)=地方の役所」であり、その長である「国司」となる。
平安初期には中央の貴族は国司として実際に地方に赴任していたが、のちには地方行きを嫌がるようになる。そうなると自分の代理で「目代(もくだい)」を派遣して、国衙の役人である在庁官人たちを指揮して地方の経営にあたるようになる。
荘園と公領の関係はパラレルで「本家=朝廷」「領家=国司」「下司=在庁官人」となる
(下記の図参照)
「本家」「領家」「下司」という利益の配分を受けるポジションを「職(しき)」といい、それら相互の関係のことを「職の体系」という。
土地はいったい誰のもの?
職の体系の問題点は所有権がはっきりしないこと。
また在地の領主にとって、口利きを頼んでいる本家・領家たちが「土地が奪われるといった緊急事態」に対応してくれるかどうか非常に不安だった。なぜなら領家・本家は遠く離れた京都にいるわけだから。実質的に土地を守ってくれる、というよりも領家・本家の名前を出しておけば少しは安全保障上、マシだろうくらいの感じ。がゆえに自分の土地は自分で守る、ということで武士が誕生した。荘園という土地支配のシステムが、必然的に武士を生んだ。
鎌倉幕府は武士たちのコミニュティ
地方の在地勢力は、土地の権利の一部を保有している中央の本家・領家からの干渉をはねのけるため、団結し、自分たちの代表を選出する必要にかられた。そして代表として選ばれたのが源頼朝だった。頼朝は在地勢力(武士)側の味方になってくれるし、いざというときは武力行使も辞さない。また中央との交渉力もあった。
頼朝は在地の武士たちを「地頭」に任命することで、彼らの権利を保障した(=御恩)。その代わり地頭に任命された武士は、頼朝のために軍事行動の負担を負う(=奉公)。地頭たちは税は変わらず中央の本家・領家に収めていた(ここ、初めてそうか!と納得。結局、地頭って何している人?というのが今までよく分からなかったから)。
やがて、武士たちは自分たちのコミニュティ=鎌倉幕府を作る。そうなってくると中央の本家・領家に税を収めたくないとも思い始める。それで鎌倉時代は土地をめぐる裁判が頻発する。この土地問題を解決するために明示的な法律が必要だと制定されたのが「御成敗式目」。
次回は土地を基盤に生まれた鎌倉幕府が、土地ではなく”銭”が経済の中心になったことで崩壊し、室町を経て、荘園的な要素を全部消し去った戦国大名が登場したところまで書きたいと思います。
※感想④です。