歴史探偵

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本「日本史のツボ」感想④〜進化する武家政権〜

”土地の支配”という観点からみると戦国大名ってすごい。

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銅銭

 

 

※感想③からの続きです。

 

鎌倉幕府はなぜ滅びた?

滅びの理由① 貨幣経済の浸透

前回の記事でまとめたように、地方の在地において「自分たちの土地は自分たちで守る」という必要性から武士は生まれた→武士たちは団結して源頼朝をトップにすえ、鎌倉幕府というコミュニティを作ったという流れがあった。

ではこの鎌倉幕府がなぜ滅びたのか。

→それは土地が中心だった経済が貨幣経済になったため。
なぜ貨幣経済になったのか。

→中国から大量の銅銭が入ってきたから。

この貨幣経済が日本の隅々にまで浸透するのは1225年~1250年ごろ。土地を売るときの証文をみると、それまではコメで売り買いされていたのが、この時期に銭に変わるという。
(付記)銅銭は平清盛の時代から入ってきていたが、鎌倉時代に入って銅銭が本格的にやってくるようになった。

武士は不動産中心の経済でやってきたが、動産や貨幣の経済の流れに飲み込まれていく。そこで土地の切り売りも始まり、生活が苦しくなる武士が増えてくる。


滅びの理由② 蒙古という外圧

鎌倉幕府は土地を配下の武士たちに土地を安堵することで、また源平の戦いや承久の乱で新たに獲得した土地を分け与えることで、彼らの忠誠心を保っていた。しかし元との戦いの後では新たな土地を獲得したわけではないので、褒美としての土地を与えてやることができない。武士たちの不満は高まった。

 

滅びの理由③  御家人以外の武士の台頭

鎌倉幕府は配下にある武士=御家人が困窮しているため「徳政令」を発する。これは御家人たちが切り売りした土地を返せという命令。こんな命令を出されては、誰も武士と経済的な取引をしなくなる。ゆえにますます武士が困窮する。

徳政令が出される背景には「所有権の未成熟」があった(「所有権」という”現代では自明の概念”も時代によって内実が変わる)。土地を売ってしまったあとでも「もともとこれは頼朝様から安堵してもらった土地だから返してくれ」という論理がまかり通ってしまう。
そこで自分たちの経済的利益は自分たちの武力で守ろうとする「悪党」と呼ばれる武士が出現する。近畿地方のような生産力が豊かで貨幣経済が進んだ地域からこのような御家人以外の武士が台頭してきた。

 

中途半端な室町幕府

悪党などの先進的な非御家人武士(楠木正成らが有名)をまとめたのが護良(もりよし)親王。さらに御家人側の有力武士・足利尊氏も鎌倉幕府に見切りをつけ、幕府は倒れる。
尊氏は京都に室町幕府を開く。

なぜ京都なのか。

第一に新しい経済の原理=貨幣経済の中心が京都だったため。
第二に室町幕府が弱体だったから。朝廷・貴族などの旧勢力と交渉しつつ政権運営を図る必要があった。

室町幕府は平安以来の「職(しき)の体系=土地への権利が重層的に重なっている」を乗り越えることができなかった。旧勢力の影響力を排除できなかった。

 

戦国大名のココが新しい!

室町幕府が一掃できなかった旧体制の影響力を、自国の領地内では廃してしまい、自らの一元的支配(これを一職(いっしき)支配という)を確立したものを戦国大名という。たとえば駿河国の土地の所有は、すべて自らの武力を背景に今川義元が保障する。「職の体系」はここに至ってようやく否定され、新たな土地所有の権利が確立する。そこが戦国大名が画期的だったところ。

 

感想③の記事でも書いたように「日本史のツボ」で自分がいちばん面白いと思ったパートは「第三回 土地を知れば日本史がわかる」の章である。この章を読んで、平安時代~戦国時代までの歴史を概観してみると、武家政権が土地支配という点で進化してきたのがよく分かった。学校で習った歴史だと、「平安時代から鎌倉時代になった瞬間に権力はすべて鎌倉幕府に移った」みたいに一面的に思いがちだけど、現実の支配構図はもっとまだらで、少しずつ少しずつ武家に権力は移っていった。こういうイメージを持てること=現実の複雑さに思いを馳せられることこそ、歴史を学ぶ意義なのかなと改めて思う。

 

 

※銅銭の話。中国・宋では銅銭が流通していたが、次の元では銀と紙幣を流通貨幣としたため、大量の銅銭が余り、それが日本に持ち込まれたらしいです。

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※肥後(熊本県)では国人(在地の小領主)から大名が支配する時代に代わった画期を肥後ルネサンスというそうです。

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