歴史探偵

趣味の歴史、地理ネタを書きまくろうと思っていたら、仕事柄どうしてもTVの記事が多くなる今日この頃…

「ニッポンのジレンマ」スピンオフ トークイベント・感想②(2018年2月3日@B&B)

「歴史の終わり」と”ビートたけし”の浅からぬ関係。

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 2月3日に参加したトークイベント感想の続編です。前編はこちら。

candyken.hatenablog.com

 前編の感想の最後に記したように、トークの中で大澤聡さんがぼくらは歴史以後を生きている」ということを話された。この言葉はすごく自分の中に響いた。何かとても大事なことを言ってる気がしたのだ。今回はこの言葉の意味について考察してみたい。

 

大澤さんは「90年代までは歴史があった」「2000年代からは歴史がなくなった」と語っている。そして「2000年代以降は世の中が、社会が、非常に多面的で、ある言葉やキーパーソンで言いあらわされる世界ではなくなった」とも。

 

そうなのだ。43歳の自分にとって80年代は物心がついて、見ていたテレビの内容を覚えている時代。「8時だよ 全員集合」を見たりおニャン子クラブが流行ったり、ガンダム(の再放送)を見たりしていた。90年代は小室哲哉GLAYの音楽が流行っていたのを覚えているし(すいません、思いつくままに適当に挙げていますが)、テレビだとボキャブラ天国を見ていたりした。エヴァンゲリオンは当時見ていなかったけれど、世の中で流行っていたのは感じていた。だから90年代のふりかえりでエヴァの映像が使われてもしっくりくる。

 

それが2000年代に入ると、いったいどんな音楽が流行っていて、どんなテレビを見ていたか、というのが、だんだんアイマイになってくる2010年以降も同じ。全体的に時代のイメージがくっきりと像を結ばず、どこかつかみどころなくぼんやりしている

 

音楽でいうと自分個人で熱心に聴いていたものはあって、90年代終わりから2000年代初頭の椎名林檎や2010年代に入ってのサカナクションとかになるわけですが、それらの音楽が時代のシンボルとして機能していたわけではない(と思う)。80年代を映像でふりかえるときに、中森明菜小泉今日子で振り返るようには、椎名林檎の音楽は使われないだろう

 

みんなが個々に自分の好きなポップカルチャーを摂取する時代。たとえある特定のカルチャーを好きな人間がいたとしても、せいぜいそのファンのグループだけ、という限られた現象でしかないく、全国民を熱くさせたりしているわけでない。こういう時代を指して、大澤さんは「歴史以後」と言ってるのではなかろうか。

 

ではなぜ「歴史以後」時代が訪れたかというと、それはやはりインターネットの登場だろう。95年のWindows95の登場、そして2000年ごろからのインターネットの本格的な普及でみんな自分の好きな情報を個々に取りにいくことができるようになった。そして2007年のiPhoneスマホ)登場以後は、その行為をPCの前にいなくても、できるようになり、情報摂取の自由度はさらに高まった。時代とともにどんどん「歴史以後」現象は強まっている

 

そうなってくると、誰もが知っている超有名タレント、メガヒット曲というのはだんだん存在しえなくなってくる。なぜなら超有名タレントやメガヒット曲というのは、そのタレント本人や曲が優れていることに加え、マスメディアが強力に存在していてこそ生まれ得るものだから

 

純化していうと、例えばテレビのキー局がNHK、日テレ、テレビ朝日、TBS、フジとあったとして、同時刻に流れている放送波の数は5派。これはたった5つしかない「世の中に対するショーウィンドウ」のようなもの。「実力+(プラス)運」で(自分は運の要素も相当大きいと思う)そのショーウィンドウにディスプレイされたタレント・曲だけが世の中に認知され、ヒットにつながっていく。

 

逆に、「歴史以後」時代は、ネット空間の中に無数の小さなショーウィンドウが置かれているようなものだ。いろんなタレント・曲が溢れかえっているが、誰もが知っている、という存在にはなりえない。

 

しかしテレビは誰もが知っている人でないと視聴率が稼げないから、今の時代にあってもテレビ局はいきおい「歴史時代」(=マスメディアが元気だった時代)のタレントをいつまでも使いたがる。例えばビートたけし明石家さんまダウンタウン等々。そして「歴史以後」に登場したタレントはなかなかビッグに成長していけない。

 

仮にそれらビートたけし明石家さんまダウンタウンにしたって、全く同じ才能でもって今の時代に登場しても、今の存在ほどビッグにはなれないだろう。それだけの偉大な存在になれたのは、生まれ落ちた時代が、マスメディアがギンギンに元気で、才能あるタレントにとって幸福だったというのは確実にある。

 

かように今はみなが同じコンテンツを楽しんでいるわけではない時代だ。でも一方で、人は誰かと同じものを見て、聴いて、感じて共有もしたい存在。そうしていないとどこか寂しさも感じる。そこで持ち出されてくるのが「国家」とか「伝統」と言われるものなのではないだろうか。若者の右傾化、などと言われるようになって久しいが、その背景には、上述したような「歴史以後」時代特有の寂しさがあるような気がする。