歴史探偵

趣味の歴史、地理ネタを書きまくろうと思っていたら、仕事柄どうしてもTVの記事が多くなる今日この頃…

本「稲の日本史」・感想

ニッポンの多様性のレベルを一つ上げる。

稲の日本史 (角川ソフィア文庫)

稲の日本史 (角川ソフィア文庫)

 

 

縄文時代は狩猟・採集。弥生時代になって、朝鮮半島から稲作文化を持った人が相当数やって来て日本は稲作農耕民に国になっていった…。

日本史の黎明期をそんなふうに捉えている人は多いのではないだろうか。ざっくり言うと少なくともこの本を読むまでの自分はそうだった。

しかしこの「稲の日本史」を読むとそんな日本史に対する二項対立的なイメージはどこかに消えてしまう。稲の歴史のイメージがもっと混沌としてくる。縄文時代と弥生時代はそんなに整然とは区別できない。お米そのものに対してのイメージもそうだ。お米はぼくらが食べているジャポニカ種とインディカ種(細長いパサパサの米)の2種類しかないと思っていたら、ジャポニカ種にも熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカがあると告げられる。だからお米のイメージも混沌としてくる。「ん?どういうことだ」と頭の中が一度、カオスになる。

しかし従来の歴史や米に対するイメージがスッキリ整理されたものであったというのは自分が単にモノを知らなかったということなのだ。頭の中に最新の研究を踏まえた知識を注入した結果、頭の中が混乱してくる、というのは歓迎しなきゃいけない、と思う。

とにかくこの本は従来の凝り固まった稲作へのイメージを覆してくれます。本の中で整理されている稲作の歴史に沿って、ポイントをまとめておきます。

 

イネのなかった時代

西日本では約6000年前より昔、東北日本では約3000年前より昔

生活の糧は狩猟と採集による。部分的には原始的な農業も。栽培されていたのは、ヒエ、クリ、ヒョウタン、アカザ(雑草。葉を茹でて食べることが出来る)、ゴボウ等。

縄文時代の日本列島はごく一部の地域を除くと森に覆われていた。森はミズナラ、ブナなど、ヒトの手を受けていない樹種から、クリを主体とする森に変わって来た。

 

縄文の要素が拡大した時代

西日本では約6000年前(縄文前期から中期)、東北日本では約3000年前(縄文後期)〜約2500年前ないし約2700年前まで(北海道、南九州と南西諸島を除く)

イネが列島の南西部では相当の広がりを見せ、食料生産の柱のひとつになっていた可能性が高い。ただ主食とまでは言えない。

イネが作られていた(おそらく)最古の証拠は、岡山市朝寝鼻貝塚で検出されたブランドオパール

※ブランドオパールとはイネの葉に溜まったガラス成分が地中から掘り出されたもの。このガラス成分のおかげで細長いイネの葉も比較的しゃんとした形を保つ。

この頃のイネは焼畑で作られていた(ここポイント!水田ではない!)。ゆえに畔や灌漑水路など水田の遺跡か発掘されないから、といってイネが耕作されていないことにはならない。

今でもラオスなどでは焼畑でイネを作る。2、3年耕作すると土地は「山に返す=休耕する」。

またそのラオスの焼畑には畔や水路、またクワやスキといった農具もあまり見られない。ゆえに農具が発掘されないから、といって稲作がなかったことにはならない。

イネの種は熱帯ジャポニカ。

 

縄文の要素と弥生の要素がせめぎあった時代

縄文の晩期から近世が始まる前まで(約1500年!長い!)

縄文晩期に水田稲作の技術が日本に持ち込まれる。この弥生要素は1500年かかって北海道の大半を除く日本列島のほぼ全体にゆきわたる。

イネは熱帯ジャポニカ種も温帯ジャポニカ種も並存する。熱帯ジャポニカは背が高く、過繁茂すると生産性が落ちる。それが熱帯ジャポニカの衰退につながる。

この時代、水田は従来のイメージほど、日本列島に広まっていたわけではない。水田耕作は重労働。

しかし支配層が少しずつ水田耕作を進めた。支配層にとっては限られた土地での生産性を上げたいから。焼畑の休耕などは生産性が落ちて都合が悪い。

鉄製農具の登場など農業技術上の変革も水田耕作を後押しした。逆に言うと鉄製農具がないとまともな水田耕作はできない(畔や水路が作れない)。そもそも木製農具だって作れない。

弥生時代の人びとにとってポピュラーな植物資源はドングリの仲間。イネは実はそれほど大きなウェイトを占めない。また骨の成分を調べてもさまざまな海の動植物を食べていた縄文人に近い。縄文と弥生の食生活にそれほどの断絶はない。

 

水田耕作が定着した時代

近世から近代初期

この時代にようやく今の日本に見られるような水田景観が広まった。 

 

稲作の近代化

近代から現代

弥生の要素と西洋文明のハイブリッドされた。生産量が飛躍的に伸びた。

 

ざっくりまとめてみましたが今までの縄文=狩猟・採集、弥生=水田稲作のよりだいぶ豊穣な日本列島の歴史イメージが得られるのではないだろうか。

また今、日本各地で目にすることが出来る水田も、ある悠久の歴史を経て来てこのような景観になったわけで、縄文時代にタイムマシンで飛べば、焼畑の土の上に稲が成っている姿を目にすることができるかもしれない。空想の中でも日本の多様性のレベルがひとつ上がって何だか楽しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1964年、日本は西洋の建築に追い付いた。

 

オリンピックと建築は切っても切り離せない。

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「感じる旅、考える旅。トランヴェール」と題されたJR東日本の新幹線の車内誌(無料でお持ち帰り可)がある。座席の前ポケットに入っているのでパラパラを見たことがある人も多いと思います。

その2018・5月号の特集「建築とデザインでたどるTOKYO1964」がとても面白い。1964年の東京オリンピックを期してつくられた東京の名建築が紹介されており、それらがどんな時代の空気の中で計画され、工事が進められていったのかが解説されている。

トランヴェールの文章を引用させていただくと…

この祭典(=1964年東京オリンピック)を機に、東京の街は大きく進化を遂げたといっても過言ではないだろう。中でも、建築やデザインの分野では革新的なものが生み出され、日本国内のみならず世界にも大きな影響を与えた。

経済のみならず、建築・デザインの分野でも当時の日本は右肩上がりだったのだな、と思う。同誌で取材協力されている建築史家の米山勇さんによれば

1960年代は、明治時代から西洋に追い付こうと努力してきた日本の建築が、デザインと技術の両面で一つの完成を見た時期

らしい当時の建築には、西洋を肩を並べることができた、という日本人の満足感やプライドがぎゅっと詰まっているのかも。

 

さて、同誌にピックアップされて紹介されている名建築は全部で4つ。順に概要だけまとめておきます。

 

国立代々木競技場

記事内では「20世紀を代表する日本建築の最高傑作」と紹介されている。第一体育館と第二体育館からなる。自分の職場のすぐそばなのだが、そこまでの傑作建築とは知らなかったなあ。デザインと建築技術を両立させたところが高い評価を受けている。

また同記事内に掲載されている建築家・隈研吾氏のインタビューによれば、国立代々木競技場は…

コンクリート特有の冷たさがなく、訪れる人の心に響くような建築である

コンクリートと鉄で作られた、20世紀の建築技術の集大成

だという。

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代々木第一体育館

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代々木第二体育館

デザイン面の特徴

彫刻作品のように優美なカーブを描く造形。

技術面の特徴

第一体育館は2本の柱をケーブルでつなぎ、広大な内部空間を生み出す吊り橋の技術を応用した”吊り構造”の技術で造られたもの。館内には柱が1本もない大空間が広がり、競技の集中できる環境が生み出されている。

選手を競技に集中させる、という機能を外観の美しさも含めて叶えてしまったところがすごい。見る角度によってフォルムがどんどん変化するので、建築のまわりをぐるりと一周するのがおススメとか。

 

日本武道館

1964年東京オリンピックの柔道会場として建設された日本武道館。

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日本武道館


ともすればロックの聖地のようなイメージが先行してしまい、本来の建築の目的を忘れてしまいそうではある。事実、1964年の建築の中での知名度は一番。

デザイン面の特徴

屋根の曲線は富士山の裾野をイメージしたもの
八角形なのはどの客席からも競技が見やすいようにするため。

 

駒沢オリンピック公園総合運動場

1964年東京オリンピックの第二会場であった。

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石畳を敷き詰めた敷地には、樹木をほとんど植えない”ドライ方式”と呼ばれる公園らしい。住宅もまばらだった郊外に突如完成した近未来的な空間。一方で駒沢体育館も管制塔も仏教建築を思わせるデザインで、広々とした平地に整然と建物を配置するさまも寺院の境内を彷彿とさせる。

 

駒沢体育館

デザイン面の特徴

法隆寺の夢殿を思わせるデザインで、兜のような独特の屋根を持つ。

技術面の特徴

コンクリートで全体の骨格を組み、その間に屋根をかけることで、
丹下の国立代々木競技場とは異なる手法で広々とした内部空間を生み出した。

 

管制塔

デザイン面の特徴

幾つもの屋根が重なる姿が五重塔を思わせる

 

ホテルニューオータニ

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1963年まで日本では31メートル以上のビルの建設は制限されていた。
このオリンピック準備期間中にその制限が撤廃される。制限撤廃直後に
建てられたホテルニューオータ二は、約72メートルと当時日本一の高さを誇った。


技術面の特徴

オリンピック開幕まで期間がない中、また人手も不足している中、工場であらかじめ造っておいた部材を現場で組み立てる”プレハブ工法”が採用された。
客室には世界初のユニットバスが取り付けられた。
ホテルのシンボルとなったのは17階に造られた回転ラウンジ。海外からのお客様にどの席に座っても富士山を望めるよう設計された。

 

補足:新国立競技場

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上記でも紹介したが、本特集には建築家・隈研吾さんのインタビューが載っている。その中で自らが大成建設・梓設計とともにデザインする「新国立競技場」について語っている。要約しておきます。

新国立競技場の主役は、日本人が最も親しんできた”木”

植栽を軒庇上部に設け、建築を神宮外苑の森に溶け込ませる

隈さんは建築材料の主役をコンクリートから木へ転換させたいと考えている。はるか将来にはこの木を大胆に使った新競技場が21世紀日本を代表する建築になるかもしれない。

 

 

※本記事でも紹介した日本武道館、国立代々木競技場に関しても展示されている展覧会。日本建築は”屋根”に特徴があるようだ。

www.rekishitantei.com

 

※隈研吾さんの建築のうち、建築材料に徹底的にこだわった展覧会。コンクリート以外にも建築材料ってこんなに奥深いんだ…と感心します(展覧会自体は終了しています)。

www.rekishitantei.com

 

 

 

 

東北・秋田新幹線で”太平洋プレート”を感じる

車窓の風景から地学を学ぶ。

日本列島100万年史 大地に刻まれた壮大な物語 (ブルーバックス)

日本列島100万年史 大地に刻まれた壮大な物語 (ブルーバックス)

 

 

東北・鉄道の旅は景色に変化がない?

「日本列島100万年史」(ブルーバックス)という本を読んでいて面白い記述に出会った。

北上する(東北本線の)電車の車窓から景色を眺めると、両側には水田が広がり、右手(東側)には低くなだらかな山地が、左手(西側)にはやや高い山地が、延々と何時間も続くことに気づくでしょう。

東北地方を南北に走る東北本線では、景色にほとんど変化がありません。

なるほど…。景色にほとんど変化がない…。その視点はなかったな、と。

この記述を目にしたあと、実際に東京から秋田への出張があったので、東北本線(在来線)ではないが、東北新幹線に乗ってその景色の移り変わりを確かめてやろうと考えた。東北新幹線も大きく見れば東北本線とほぼ平行して走っている。大きく地形を確認するには問題ないと思う。

 

実際に景観を確かめてみた

埼玉・大宮までは関東平野に建物びっしりの首都圏の街並みが続くが、それ以降は景色がだんだん鄙(ひな)びてくる。そして宇都宮の手前くらいからは西側の遠くに山並みが見えるようになる(一枚目の写真の山々はおそらく日光)

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宇都宮駅手前くらい

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福島市あたり

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仙台を越えて奥州市あたり

それ以降は基本的に「新幹線が走る部分は低地で水田・人家」そして「遠く西側にそれほど高くはない山が見える」というパターンが確かに続く(その日の座席の関係で東側の景色はチェックできていないが)。

 

実は、「日本列島100万年史」によれば鉄道は東北の中央低地と言われる部分を走っているという。

Googleマップで見てみると、鉄道(この地図では東北新幹線)が山地と山地の間を通されているのがよく分かる。

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本の中にある断面図だとこの通り。

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新幹線の東側は「北上山地(茨城・福島辺りでは阿武隈山地)」、西側は「奥羽山脈」が続いている。その間の”谷”めいた地形に鉄道は敷かれているというわけ。

 

どうして景観が変わらないの?

ではなぜそんな山、谷、山みたいな地形が生まれたのか。それは「太平洋プレートが日本列島の下に潜り込んでいるため、大地にシワが寄るから」だそうだ。本の中に分かりやすい図があった。

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本の図見れば分かるように東北日本には、東側から太平洋プレートが本州に対してほぼ直角に沈み込んでいる(図の「日本海溝」の右側が太平洋プレート)。なのでシワも列島に対して平行に生まれることになり、そのシワに沿ってできた低地を鉄道は走ってゆく。ゆえに何百キロもさして景観(地形)が変わらない旅になる。

東北新幹線は”大地のシワ”の中を走っているんだ…と思うと、そのシワを作ったはるか東の海の底の太平洋プレートと日本海溝のことがしのばれて何だか面白い。

ちなみに盛岡から秋田新幹線車両が切り離され、秋田へ向かう西向きのルートに入ってしばらくすると、周囲は一気に山深くなる。

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田沢湖あたり

大地に出来たシワと秋田新幹線が直交し始めるためだ。車窓に山が立ちはだかり、川も深く土地を削っている。はるか昔から東北の旅は「南北移動はラク、東西移動はタイヘン」だったんだろうな…。

 

お尻の下の太平洋プレート

ちなみに、東北地方の火山はその東北新幹線が走る中央低地より西側(奥羽山脈側)にしかない(東側の山地には火山はない)。

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それも太平洋プレートの構造で説明できる。「日本列島100万年史」の簡潔な説明を引いておきます。

海洋プレートの沈み込み深度が、マグマが生成される地下100キロメートルに達すると火山ができます。つまり奥羽山脈より東に火山がないのは、プレートの沈みがまだ浅く、火山ができる条件が揃わないからだと説明がつきます。

自分がのっている新幹線の座席のはるか地下深くに沈みこんでいる太平洋プレート。しかしまだ深さは100キロには到達していない。プレートの深度が100キロを超えるのはもっと東側の地点なんだなあ…。そんな妄想を膨らませる旅も悪くない。

 

補足:日本最長の国道はトンネル少なし!

東北本州のシワの合間(中央低地)をゆく鉄道。同じ箇所を東京・日本橋と青森市を結ぶ国道4号線も走っている。4号線は純粋な陸上区間だけなら日本最長の国道だ(836.7km)。

※海上部分まで含めると58号線が最長(鹿児島市~那覇市。なんと海上部分も国道指定を受けている道路があるのだ。これも驚きだが)。

これだけ長い国道4号なのになんとトンネルはたった4つしかないらしい。また山地が多いイメージの東北だが、4号線の最高地点の標高はたった458m。これらの事実もそのルートとなっている東北の中央低地がいかに平坦であるかの証左なのではないだろうか。

 

※この国道4号に関してはこちらを参考にしました。

国道の謎 思わず訪ねてみたくなる「酷道・珍道」大全 (イースト新書Q)

国道の謎 思わず訪ねてみたくなる「酷道・珍道」大全 (イースト新書Q)

 

 

歴史や文化、グルメに美しい景色…。旅とともに楽しみたい要素はいくつもあるけれど地学も確実のそのラインナップに入るなあと思う。

 

 

※こちらは東京の地形に合わせた鉄道アートの記事です。

www.rekishitantei.com

 

 

 

 

 

出口治明さんの日本史おもろい!~文藝春秋6月号より~(後編)

硫黄は世界商品だった。

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硫黄ガス(玉川温泉)

 ※前編の続き。

 

硫黄と銀が世界を制す

「世界商品」とは文字通り世界中の人々が欲しがる、あるいは必要とする商品。東南アジアの胡椒、カリブ海の砂糖、中国の茶・陶磁器・絹など。現代なら日本の自動車、中東の石油など。日本が有史以来比較的平和だったのは、島国だけだったからでなく、世界商品に乏しかったから(外国が侵略して来なかった)。

そんな日本に10世紀、世界商品が登場する。それが硫黄(これは知らなかった!)。宋で火薬が発明されたから硫黄への需要が高まった(そのころの中国では硫黄が取れなかった)。宋は西夏という国と戦争を繰り返しており、火薬が必要だったし、モンゴル帝国のクビライが日本を攻めたのも硫黄が目的とも言われている。

16世紀の日本の世界商品は石見銀山が発見され、灰吹法(はいぶきほう)という精錬技術を得て、増産にも成功。この銀山は日本の銀の五分の一を産出。またこのころの日本の銀は世界の銀の三分の一を占めていたとも。

織田信長が鉄砲を買えたのも銀があったから。銀を求めてアジア・ヨーロッパから商人が殺到した。

 

中世に日本の「中身」が成立した

出口さんは日本の中世を「平安末期から戦国時代まで」とする。この中世に日本の「中身」が成立した(骨格の成立は7世紀の「日本」「天皇」などの国号・称号が成立したころ)。中身とは日本独自の精神性・文化のことで、それらが成立するのに大きな役割を果たした触媒は阿弥陀経(浄土教)。日本文化を代表するお茶、お花、能狂言はみな禅や阿弥陀信仰の影響を受けている。

 

交易は儲かるがゆえに危険

明はそれ以前の宋や元と異なり、交易を嫌い、海禁政策をとっていた。江戸幕府もそれをならった、と考えられる。

また交易は非常に儲かる。足利尊氏が貿易船二艘出しただけで天龍寺の建設が賄えたほど。仮に江戸幕府が交易を許すと、各藩は経済力をつけてしまう。力をつけて幕府をおびやかしては困る(新田開発や特産品開発程度の経済力アップはたかがしれている)。なので鎖国した。

しかし鎖国のせいで江戸時代の日本のGDPは停滞した。1700年よりも1870年の方が世界経済に占めるGDPシェア、人口シェアも落ちた。人々は移動の自由もなく生産性を高めるのはそれぞれの土地でやるしかなかった。凶作になっても食糧をよそから持ってくることができず、飢饉に直結した。日本人の平均身長・体重は日本史上最も小さくなった。

←しかしこれが本当だったとしたら、江戸時代はなんと変化のないつまらぬ時代だったことだろう…。実際のところはどうだったのだろうか。

 

中国市場を獲得したかったペリー

ペリーの黒船来航のころアメリカ。軽工業が発達し、製品輸出のための市場を欲していた。ペリーは英国に対抗し中国市場を獲得すべく、太平洋航路を開きたい。そのため日本を拠点としたい。そのための最新鋭の軍艦で日本にやって来た。

ペリーに相対したのが老中・阿部正弘だったのは幸いだった。彼はアヘン戦争のことも知っており、日本が開国して豊かになり、強い軍隊を作らないと清のようになってしまうこともわかっていた。

 

方便としての尊王攘夷

しかし一方で薩長を中心に尊王攘夷思想も流行ってしまった。ただ薩英戦争。下関戦争で外国にボコボコにされ、薩長の指導者(大久保や伊藤)も目が覚めた。でもとりあえず幕府を倒すまではそのまま尊王攘夷で進み、それが実現したら明治天皇を東京に移し、開国・富国・強兵という阿部正弘のアイデアを実現していった。

 

方便としての欧米外遊

倒幕に成功したが新政府内にはまだまだ尊王攘夷を捨てられない人がいた。そのため大久保らは彼らの価値観を転換させることを目的として、欧米外遊を決める。それが岩倉使節団。大臣の半分以上が二年も欧米に外遊するという無茶な話だったが、リーダー層の価値観を転換させるのには奏功した。

また岩倉使節団は日本と世界の国力を正確に分析していた。使節団がめぐった国の順番はGDPの大きさ順になっている(アメリカ→イギリス→フランス→ドイツ)。

一方、実務官僚レベルの人材を養成するために作られたのは東京帝国大学だった。そこに高い給与を払って外国人教師に来てもらい「駅前留学」できるようにした。

 

近代化がうまくいって調子にのった日本

これらの方策がうまくいって、日清日露、一次大戦まで乗り切った日本だったが、そのために逆に傲慢になってしまった。開国し富国したがゆえの強兵だったのに、1933年国際連盟脱退、1936年ロンドン海軍軍縮条約からの脱退と日本は世界で孤立を深めていく。日本は自らを客観視できなくなっていく(岩倉使節団にみられるように明治の日本は世界と自らを客観視していたのに)。

←この辺りの歴史認識は司馬遼太郎などとも共通である。

 

戦後の開国・富国路線は吉田茂が敷いた

敗戦後、日本の開国・富国路線は吉田茂がグランドデザインした。しかし強兵はアメリカに任せた。日本は経済最優先とした。

 

開国がすべての前提である日本

日本には近代文明を支える石油・鉄鉱石・ゴムの三資源がない(ゴムも重要なのか!)。日本が繁栄するには、今後も開国・富国というグランドデザインを追求する必要がある。

 

2回に渡って出口さんのお話のポイントをまとめてみました。やはりもともとがビジネスマンだからだろうか、経済・交易に力点を置いた歴史の流れの説明になっている。これは逆に日本の歴史の授業が政治史に偏りすぎているからそう思うのかもしれないが。

これからも機会を見つけて出口さんの本を読んでみようと思います。

 

※前編はこちら。

www.rekishitantei.com

 

出口治明さんの日本史おもろい!~文藝春秋6月号より~(前編)

食わず嫌いはいけない。

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文藝春秋六月号より

 

歴史が好きなので、たまに書店に行って歴史本コーナーをチラリとのぞいて、今人気の歴史研究者の方をチェックしたりする。そして何年か前から出口治明さん(現在、立命館大学アジア太平洋大学学長)の著作がけっこう目立つなあという感じはしていた。「読みやすそうだし、一回くらい読んでみようかな…どうしようかな…」と思っていた。

 

でも出口さんの経歴を見て、日本生命からキャリアをスタートされ、ライフネット生命を創業された人だと知り「金融・保険のビジネスマンとしては卓越された方なんだろうけど、歴史の語り手としてはどうなんだろう…」もいぶかしく思っていた。

そう、ご本人の著作を読んでもいないくせに、食わず嫌いをしていたのである。

 

でも今回、文藝春秋六月号の「日本史の常識が変わった」特集をたまたま図書館で見つけ、そこに掲載されていた出口さんの文章を読んでみたら、これが相当面白かった。自分の知らなかった歴史のツボをクイクイ押される気持ちよさがあった。今まで勝手な思い込みをしていてスイマセン…という感じ。

 

ということで、その文藝春秋の出口さんの文章から、自分がハッとしたり、「おお、なるほど!」と思ったポイントをブログにまとめておきたいと思います。

 

紀元前1世紀〜6世紀(弥生時代~古墳時代)まで日本は"人"を輸出していた。

人を輸出していた、というのは傭兵を送り込んでいたということ。その頃、中国や朝鮮半島では戦乱期であり、日本からの兵士は歓迎された。見返りに日本は鉄や先進文化を受け取っていた。

しかし中国で589年に隋が、618年には唐が成立。朝鮮半島でも7世紀に新羅が国を統一すると、傭兵の価値が下がった。日本はまた別の海外戦略を立たざるを得なくなった。それが古代の「鹿鳴館政策」。

 

古代にも「鹿鳴館政策」があった

鹿鳴館政策とは海外(この場合、中国)からの目を意識し、日本も文明国ですよ〜と見栄を張ること。

具体的には、冠位十二階憲法十七条をととのえる、小野妹子に「日出る処の天子…」で始まる国書を持たせて隋に派遣するなど、のこと。

また663年白村江の戦いで唐・新羅にボロ負けしたあとは、恐怖心が高まり、防御を固め、国の骨組みをつくり上げることに注力する。

「日本」「天皇」という国号・称号を用いるようになる、長安ふうの都を造営する、律令を定める、日本書紀を編むなど。

しかしこれらの国の骨格づくりは、当時の日本の国力にしては重荷だった。だから都造りはどれも中途半端に終わった。律令も中国では皇帝が代がわりするたびに作り直されるが、日本では「大宝律令」とそれを受け継いだ「養老律令」以降、誰一人作ろうとしなかった。日本書紀も中国の歴史書に倣うならば、本紀(紀)・志・世家・列伝・票までのパートがないと完全とは言えないんだとか。だから日本書紀とは実は史書の最初のパートで終わったもの。これは面白い!。

 

ユル〜い国風文化

755年〜763年の安史の乱により唐が弱体化すると、日本の緊張感もゆるむ。唐からの使節も来なくなるから、と中国ふうの身体にぴったりした乗馬服はやめ、高温多湿の日本に合ったダラっとした着物に変える。椅子と机もやめて、床にじか座りになる。要するに国風文化とは緊張感がとけ、もとの日本ふう生活に戻っていったということ。

ただし国風文化といっても中国への憧れがなくなったわけではなく、舶来品も珍重されていた。中国〜日本間の貿易で儲けてやろうという人はたくさんいた。平安時代には博多の港は栄えていた。

 

大量の宋銭が変える日本

10世紀に中国で成立した宋では銅銭が流通していた。しかし宋を滅ぼしたモンゴル帝国は銀と紙幣をキャッシュとした。そのため大量の銅銭が不要になり、日本に輸出されることになった。ものすごいマネーサプライがいきなり生じた。

それまでの日本は土地を基盤とした経済だったが、この銅銭の大量導入による新しい貨幣経済にのっかって、ベンチャー的な新しい商売を始める者が現れた。日本史の教科書で「悪党」と呼ばれる人たちのこと。

この新しい動きに乗れなかった御家人は借金のかたに土地を奪われた。

 

古代〜中世の最大の天才の一人・平清盛

出口さんは平清盛を高く評価する。

清盛は日宋貿易で日本を豊かにするため、水上交通に便利な福原に都を移す。これは源頼朝がのちに行った武士による武士の政治の嚆矢(歴史学者の中にはこれを「福原幕府」と呼ぶ人も)。

清盛は朝廷から軍事・警察権を奪ったわけだから、この時点で朝廷から武家への政権交代が起こったとみるべき(この出口さんの論には異を唱える学舎も多いとは思うが)。

 

それにしても海外(特に東アジア)との連関のうえで日本史を考えるのが大切と説かれるが、出口さんの文章を読んでいると、そのことが実によくわかる。

 

※後編はこちら。

www.rekishitantei.com

 

 

 

 

コンフィデンスマンJP第6話 感想

少し人間の心を平板に扱いすぎてはいないか。

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禁じえない羊頭狗肉感

自分は第4話の感想で、「このドラマは、毎回のエピソードで後半になるに従ってツッコみどころが増えたり、オチが弱かったり…という傾向があるのでは」「でもこのドラマの持つ展開リズムと適切な間隔を置いてちりばめられる笑いがその欠点を補っているので満足しながら見ている」と書いた。つまりはいささか竜頭蛇尾なきらいはあるが、まあそれでも良しとしようということだ。

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で、第6話やっぱりその傾向はあって、後半尻すぼみだったんだけれど、今回はその程度がヒドイというか、あまりにも人の心理の扱いが雑なのでは、と思ってしまった。コンフィデンスマンJPの持ち味であるリズム・笑いをもってしてもちょっと補いきれないマイナス面を感じてしまったのである。

そもそも内村光良演じるアメリカ帰りのコンサルタント・斑井満が、こちら側が感情移入できる魂入った人格として立ち上がっていないように感じられた。前半はほとんど斑井のセリフはないし。またこの人物にお笑い界トップクラスのウッチャンを当てること自体、もったいないというか、「ウッチャンじゃなくてもいいじゃん」とも思ってしまった。ウッチャンが演じる必要性があっただろうか。

そして、そもそも体温が感じられる人格として立ち上がっていない人物が、考古学マニアたちの「探し求める行為そのものへの情熱」に打たれて、おカネ一辺倒だった心を入れ替え、ダー子(長澤まさみ)から山を買って遺跡を掘り始めた…と描かれてもぜんぜん共感できなかった。制作者たちもこの筋立てに共感していないんじゃないかなと思えたほどだ。だってウッチャンが小さなスコップで山を掘り始める描写があまりに雑だったから。「あんなふうに遺跡探すわけないやん」みたいな。いや、これは話が逆かもしれない。人物に感情移入していないから、どんな描写をされてもうつろに見えたかもしれない。

いずれにせよ登場人物に感情移入させる必要がないならば、ここまで長いストーリーである必要もなく、もっと短くシャープなコントでいい。なんというか今回のエピソードには羊頭狗肉感を禁じえなかった。

 

リズムの中に埋め込まれたリズム

少し辛らつに書いてしまった…。しかし今回ももちろん魅力的な要素はあった。ダー子が古畑任三郎をパロってみたり、土器作りをさせながら3人にアフロヘアをかぶらせ、レキシの音楽をかけてみたり。土器作りのシーンはレキシファンで良かったな~と思った。あのシーンでは腹を抱えて笑ったので。

 

また、自分はこのドラマの最大のウリはテンポよく物語が展開されるという意味での”リズム”だと思っているが、今回はセリフ回しで気持ちいいリズムが2箇所あった。

一つ目は五十嵐(小手伸也)が斑井のプロフィールを述べるところ。

斑井満。アメリカ帰りの売れっ子コンサル。肩書たくさん名声大好き。地方再生、街おこしが得意分野だ。実に耳ざわりのいいプロジェクトを持ちかけ、タダ同然で土地を買い上げちまう。

もう一つはリチャード(小日向文世)の「富を手に入れた人間が最後に欲しがるのは何かな?」という問いかけに対して、ダー子が答える場面。

名誉よ。賞状勲章ノーベル賞。教科書に顔写真がのって小学生に鼻毛を描かれる名誉。

この太字の部分の韻を踏んでいるところなど実に気持ちいい。それぞれのセリフ全体もリズムよく語られてスルスル情報が頭に入ってくるが、そのさらに下位のレイヤーにも言葉遊びのリズムによる快感が埋め込まれている。脚本家うまい!と思ってしまう。

 

箴言味わい比べ

お決まりの冒頭の箴言は、こうでした。

あのトロイアが、
実際に存在するに違いないという確信が
多事多難な人生の浮き沈みを繰り返す間にも、
決して私を見捨てなかったことは、なんという幸いだったろう
ハインリッヒ・シュリーマン

今回は、劇中にもう一つ箴言めいたものが紹介されていた。斑井の父が著作の中で述べている言葉だ。

考古学は学ぶものでも研究するものでもない。とり憑かれるものだ。

斑井万吉

こっちの箴言の方が汎用性があるような気もする。何かにとり憑かれたい、情熱を傾けたいと思いながら、かなわない人も多いだろうな。自分もその一人だけど。

 

 ※過去回の感想書いています。

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本「知性は死なないー平成の鬱をこえて」・感想②〜「被害者」と「ごっこの世界」〜

あまりにも知的に誠実すぎるがゆえに。

知性は死なない 平成の鬱をこえて

知性は死なない 平成の鬱をこえて

 

 「知性は死なない」の感想ブログその②。

第1章の「わたしが病気になるまで」を取り上げる。ここでの病気というのはうつ病のこと。與那覇さんは躁うつ病を患い、大学を離職されている。しかしここでは「なぜ與那覇さんが躁うつ病になったのか」その原因・理由が直接語られているわけではない。それよりも、病気を患うまで誰よりも知的に誠実であろうとした著者が、周りの知的に不誠実な人たちに違和感を覚え、いかに精神が披露していったのか、その過程がつづられている(その経験が間接的に病気につながっている、とは言えるかもしれない)。

その違和感の感じ方そのものが、與那覇さん独特の深く鋭い思考の結果であり、知的興味をそそられる。今回の記事ではその思考のポイントを2つのキーワードでまとめておきたい。

 

キーワード① 被害者

韓国をめぐる「被害者性」

日本人(特に進歩的知識人と言われるような人たち)は思考の枠組みとして世の中の人々を「加害者」と「被害者」に分け、「加害者」が絶対に悪いと考えがち。しかし「被害者」という立場は容易に入れ替わりうるもの。そしてその入れ替わりが起こったとき、 「加害者=悪」、「被害者=善」という思想が矛盾を露わにする。

具体例として挙げられているのは、2002年、小泉首相が北朝鮮を訪問し、当時の金正日(キムジョンイル)総書記が拉致問題を認めて謝罪したときのこと。戦後、朝鮮半島(をはじめアジア)を侵略した日本は「加害者」であり、相手は「被害者」だとされてきたのが、ここで初めて、北朝鮮が「加害者」であり、日本が「被害者」である事態が出現した。

そうなると進歩的知識人の人たちはこの事態を、大衆が小泉や安倍ににあやつられて、危険なナショナリズムに向かっている、と評した。この場合の加害者(=北朝鮮)を非難することがなかった。

こういう自らの議論の枠組みを反省せず、最初に政権批判ありき、で論を進める人たちに與那覇さんは強烈な違和感を感じている。

與那覇さん自身の表現を借りると…

そんな無責任な態度ってないじゃないか……

 

同様の違和感は、李明博元韓国大統領が竹島に上陸した状況で、進歩的知識人がそのことについて何もいわなかったことについても表明されている。進歩的知識人が戦後主張してきた考えは、李明博の主張と重なる(「東京裁判で昭和天皇は裁かれていない」「植民地責任を認めていない」等)。ならばなぜ、日本国民の民意に抗ってでも、自らの主張を貫かないのか、と。

 

日本政治における「被害者性」

小泉元首相は、自分を「被害者」の位置に置くことで、力を得るのに非常に巧みだった。2005年の郵政解散の折は自分(=小泉さん)は自民党内の抵抗勢力の被害者だ、と訴え、選挙に大勝し、巨大な権力を手にした。

しかし2008年には「小泉改革で切り捨てられた非正規雇用者こそ被害者だ」という空気が生まれ、翌年には民主党が政権交代を果たす。

このように日本では知性による判断ではなく、「被害者」のポジションを獲得したものが支持される傾向がある。

再び与那覇さん自身の言葉を引いておく。

こっちは被害者なんだぞ、と叫ぶだけでは、だめなんだ。そういうやり方はいつか、もっと「力のある被害者」が出てきたときに、あっさり足元をすくわれるんだ。それこそが小泉政治の教訓だ

 

キーワード② ごっこの世界

「ごっこの世界」とは文藝評論家で保守の論客だった江藤淳が、1970年に使用した概念。米国の軍事力に守ってもらいながら愛国心を叫ぶ「右翼」も、米国の核の傘に安住しつつ非武装中立の夢想にふける「左翼」も、どちらも自分のことばを本気では信じておらず、信じているように振舞っているだけ、という状態を指した言葉。

しかし日本にはもう一つ「ごっこの世界」というものがある。新聞や雑誌が自社の主張を唱えてくれる学者に依頼をし、その主張に沿うような論を展開してもらうことで、主張に権威と影響力を持たせる事態のことを指す。

しかし、この「ごっこの世界」も学者に大衆が知的権威を感じているから成り立つのであって、人々が学者にリスペクトを持たなくなったら、「ごっこの世界」が崩れてしまう。

2011年末から4年間にわたり大阪市長を務めた橋下徹氏が自分に批判的なコメントをする有識者をバカ呼ばわりしつつも、高い支持率を維持したこと。そして2016年には全米のあらゆる大学教員や大手新聞に批判されながら、ドナルド・トランプが大統領に当選してこと。これらの事象に與那覇さんは「知識人ごっこ」時代終焉の兆しを感じている。

 

補足:與那覇さんの実体験から~大学に集う「進歩的知識人」の実態~

與那覇さんが大学に勤められている期間に、與那覇さんが大学という知の拠点に対して失望する一件があった。

「さる国の皇太子が日本に来日することになったので、その皇太子に大学に立ち寄ってもらい、同時にわが国の皇太子にもその機会をとらえて大学で学術講演をしていただく」という企画が持ち上がった。その企画の主導者は、普段、君主制・天皇制への批判を口にしている人物だった。

その大学に集う知識人たちの、普段の思想と実際の行動とのかい離ぶりに與那覇さんは深く失望した。

君主制というものへの批判意識を持つよう、ふだん学生に教えている当人が、自国ではなく他国の王子様のご機嫌うかがいをして、それが大学の一大事業なのだという。私には、ただのコントとしか映りませんでした。

 このときすでに、精神的な苦しさから仕事量の調整を申し出ていた私の気持ちは、完全に大学というものから離れました。

大組織の中にいたら、言ってることとやってることが違うという御仁はたくさんいて、下の立場からすれば「はぁ~」とため息をついて流してしまうことも多々ある。でも知性で物事を判断するはずの大学でさえ同じような事態だったことに與那覇さんは深く傷ついてしまった。本当に知的に誠実な人なんだと思う。だから信用できるし、知性に基づき、思わぬ方向から正論を放り込んでくることができるんだろう。

 

 ※「知性は死なない」の感想ブログその①です。

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