学問が”役に立つ”というのはどういうことか。
ニッポンのジレンマ@広島
NHKのEテレ「ニッポンのジレンマ」公開収録を広島大学で観覧する機会があった。同番組は放送ではけっこう見ているが、現場の収録を見るのは初めてだった。
テーマは「いま、大学って、学問ってナンだ?」
大学での収録なだけに、今一度、大学や学問の意義について考えてみようという企画である。
登壇したのは以下の方々(敬称略)
- MC:古市憲寿(社会学者)、赤木野々花(NHKアナウンサー)
- 杉川幸太(広島大学工学部応用化学講座助教)
- 松本舞(広島大学大学院文学研究科助教)
- 岩本洋子(広島大学大学院生物圏科学研究科・総合科学部国際共創学科助教)
- 東信伍 WEBデザイン・開発(広島大学卒業生)
赤木アナウンサーはおそらくニッポンのジレンマのMCをするのは初めて。にもかかわらず、古市さんの軽口(この番組のセットを作るのに40万かかったんですよ~みたいな)をうまくいなしながら、番組を進行されていた。
広島大学ってどんな大学?
まず広島大学の入学式で「Youは何しに広島大学へ?」と新入生にインタビューしたVTRが流れる。
「兵庫出身で、将来は神戸市役所に入って神戸に貢献したい」
「東北大に行きたかったが落ちてしまい、後期で広島大に来た。宇宙のことを勉強したい」あと収録現場でのインタビューでも
「千葉大に行きたかったが、センターで失敗して広島大に来た」という学生もいた。
それらを受けて古市さんが「広島大学にすごい来たい人ってあまりいないね」とストレートなパンチを放つ。
一方で収録現場の学生からは「広島大学の学生といえば、広島では大切に優しくしてもらえる」という声も。この辺りは中四国のNo.1国立大学の面目躍如といったところか。
広島大学のキャンパスは現在、都市圏としての広島市からは車で小一時間かかる東広島市の郊外にある。ゆえに「広島大学には何もない」と訴える学生も多いそうだ。それに対して収録に来ていた、とある広島大の女子からは「何もない、何もない、という人は何も探そうとしていない。高校と大学の区別がついていない人が多い」という厳しい意見もあった。
大学のグローバル化について
最近叫ばれる「大学のグローバル化」についての議論。
広島大の松本助教は「グローバルとローカルを対立的に考えるのはおかしい。例えば、熊野筆(広島県熊野町で産する名産の画筆・化粧筆)はグローバルに展開できるはず」「厳島神社の研究も広島大がトップ」と。トップクラスのローカルを突き詰めることで、グローバルに展開できることの可能性を示唆。
また現場の学生からは「突然来年から英語で実施する講義があると告げられる。英語にしたことで、英語を理解することに汲々として、専門性の高みに到達できないのでは」「日本語で学んだ方が効率もいい」という疑義も呈される。また「日本語を通じて、日本の持っている価値観を理解する必要がある」という深い意見も。自分など英語の講義は「単純に良いことなんだろう」と思っていたので、学生たちの意見は新鮮だった。「そうか、そんな単純なものじゃないのね…」と。
松本助教も「英語の授業を英語でやるのは反対」「英語の文学は日本語できちんと訳さないといけない。そうすることで日本語の理解も深まる」「最近、英語学習においては”英語を英語のまま理解する”ということが叫ばれているけど、それ一辺倒では危険」とおっしゃっていた。
自分も40歳になって英語を再学習しているが、そこでの英語学習(英会話中心)は、英語を訳さずに英語のままアタマに叩きこむ、ということが推奨される。「日本語には訳してはいけない、それは受験英語の弊害」などとも言われる。しかし松本先生はおっしゃることが真逆だった。英会話レベルとアカデミックな英語とを同じレベルで捉えてはいけないのかもしれない。
一方で理系の学生からは「日本語と英語ではアクセスできる知識(論文等)に圧倒的な差がある」とも。
ツールとしての英語は文・理を問わず必須であることを痛感する。
文系と理系について
松本助教から学問の方法論について。「学問の方法の均質化が問題」「理系と文系は研究スパンが違う。理系は実験→結果と積み重ねていけば業績が出せるが、文系はじっくり考える時間が必要。学問はそれぞれ違うのに同じ指標で測られるの疑問」と。
学生からも「引っ張って来た予算や研究論文の数で測られるのは理系的」や「コミニュティの研究には文系=社会科学的アプローチと理系=数値的アプローチのどちらも必要」との声が。今の学生はほんと優秀。学問の内容だけでなくメタ的視点から学問の方法論の是非にまで思いが至っている。
それにしても学問の意義(特に文系の)については考えさせられた。哲学や文学は間違いなく人生を豊かにしてくれるけれど、何も大学で教えてなくてもいいのでは、という意見もある。批評家の東浩紀さんも以前、新聞のインタビューで下記のように答えていた。
人文知は、こういう知識を持っていたらこういう利益がありますよ、こんなふうに成功しますよという形の実学志向の教育とは、原理的にそぐわないものです。
人文知は、趣味のひとつとして生き残ればいいし、本質的にそういうものだと思う。
一方で欧米の超一流大学では哲学や古典の授業が重視されているともきく。とすれば大学当局はそれらの教養に一定程度の意義を認めているということだろう。その意義は何なのか。日本の文系の研究者はその意義を「言葉にしていく努力」が今求められている気がする。 人文知を趣味の領域だけに留めておいては、ひょっとしたら人文知に目覚め、豊かな人生を送るかもしれなかった人の、機会を奪うから…とか。
ちなみに自分は大学の法学部で政治思想史を学んだが、大学にその講座があって良かったと思う。確実に自分の知識の厚みを増してくれ、体系的にしてくれた。そういう意味では人文知は全て趣味でいいじゃないか、と言い切ってしまうのには、自分は少し抵抗があるな。
大学に行く意味はあるか
杉川助教は「みんな大学に行き過ぎ」といい。古市さんも同意する。ウェブデザイナーの東さんは「みんな大学卒の資格がほしいだけ」と。
会場の高校教員からは「教師、両親などが大学に行くのが当たり前というレールをつけちゃう」「そのくせ大学に入ると「君やりたいことないの?」と周りが言う。これは問題」と。
この辺は「みんな同じ出ないと不安」と言う日本人の心性が影響している気がする。
古市さんはそれもおそらくわかった上で「大学の4年間くらいしか自由に出来る時間がないのだから、フワフワしてもいいじゃないか」とおっしゃっていたが。
広島大学で学ぶ意味
CG(コンピューター・グラフィックス)の世界的パイオニア・西田友是(にしだ・ともゆき)氏のインタビューが流れる。「広島で研究したからこそ自分は生き延びた」「中央は予算の関係もあって、流行の研究を追わざるを得ない」「面白いからやっていただけ」。
なかなか含蓄にとむ話だった。短期間で分かりやすい指標だけで評価する方法だと西田さんのような研究は生まれなかったかもしれない。しかし田舎の広島だから良かったのだ、とも。じっくり腰を据えて研究することの大切さが伝わってくる。
杉川助教は「評価軸が大学ランキングばかり」と嘆く。松本助教は「”役に立つ”とは誰にとってなのか。世間にとってなのか」と疑問を提起する。
また広島大学は、被爆地ということもあり「平和学」が必須だという。
地域にある大学は(もちろん)地域の歴史から自由ではない。でもその地域の歴史を深く研究していけば、世界に影響を与える深い叡智も得られるかもしれない。ここでもローカルの徹底からのグローバル、のようなことも想う。
最後に
ずっと討議を聞いていて思ったのは、今ほど日本の大学行政で戦略を求められる時期はないのでは、ということ。例えば「学問は役に立つか」という問いの立て方だけでは粗雑。誰にどのように、どのくらいのスパンで役に立つのか、という視点が不可欠のように思った。そういう視点を持たない限り衰退していくニッポンにおいて大学の地位はどんどん低下していくんだろう。世の中が変化して行くのだから、大学も変化しなくては。変化しなくてはいけないのは大学だけではない。企業も学校も、その他昭和の仕組みでやってきた日本のあらゆる組織が変わらないといけないんだろうな。
※以前参加した「ニッポンのジレンマ」のトークイベントの記事です。よろしければご覧ください。