今回はドラマ全体のテーマを鮮やかに浮かび上がらせる重要なセリフを聞けた。
UDI所長の神倉さん(松重豊)が、将棋の師匠であるごみ屋敷の主人(ミッキー・カーチス)を訪ねる。その主人の妻の遺骨を携えて。その時、神倉さんが言うセリフ。
神倉:美代子さんはクモ膜下出血で亡くなったんです。誰のバチでもない。死ぬのに善い人も悪い人もない。たまたま命を落とすんです。そして私たちはたまたま生きている。たまたま生きている私たちは、死を忌まわしいものにしてはいけないんです。
人間が生きているのもたまたま。偶然に、本当のところは生きている理由もなく生きている。そして死ぬのもたまたま。偶然に病気になったり事故に合ったりして死んでしまう。
でもそんな無意味さに耐えきれない人間は、自分が生きている理由を、生きている間中探し続ける。自分に身近な人が亡くなっても、「自分がロクな亭主じゃないから、神様に取り上げられたんだ」(ミッキー・カーチス)と、自分に”責め”があるという意味をそこに見出してしまう。
しかし、そんな生きることに、死ぬことに、意味や理由を見出し続けるために苦しみ、のたうち回る人間の姿は他の人の心を打つ。そこで文学や詩が生まれ、そしてテレビドラマも生まれる。
第8話は家族をめぐるドラマでもあった。そして人が生きている意味を与えてくれる最も大きな存在といえばやはり家族だろう。
ただこのドラマはいわゆる血の繋がった家族だけが家族ではない、と言う立場をとる。血の繋がっていない母に育てられるミコト(石原さとみ)、実の親から勘当され、自分の行きつけのスナックに集う人々を家族のように思っていた町田(=今回の最も謎だった遺体。元ヤクザ)、そして六郎(窪田正孝)は、職場であるUDIを自らが帰るべき家庭のように思い始めた。
もちろん生きている意味を家族に求めない人もいる。六郎の父にとっての生きる意味は自分が威厳のある医者だということであり、自分の子も立派な医者になることだった。だから息子が(患者を見る普通の)医者の道に進むのを辞め、法医学に進むと決めたならば、彼にとって六郎は意味のある存在ではなくなった。そして親子の縁を切ってしまう。
たまたま生きているに過ぎない人間は、自らの人生に各々、意味づけを施す。その意味づけが親子で食い違うと悲劇的なドラマになってしまう。血縁が家族を決めるのではなく、人生に同じ意味づけをする者同士が家族になれる。このドラマはそう主張しているようにも思う。
またUDIでは毎回解剖を行なって"アンナチュラル"な遺体の死因を突き止める。しかしミコトらは単なる物理的な死因を突き止めることでは終わらない。その死者が生前"たまたま"な人生に何を必死になって求めてようといたのか、その答えを得ようとして悪戦苦闘する。結果、死者は生きている人間以上に、「生きるとはどういうことか」を示してくれる存在として立ち現れてくる。生きるとは、"たまたま"な人生に自分なりの意味づけをし、その意味を充実させるように生きること。今回、最も謎な死体として登場した町田は、自分の家族ごとき存在だったスナックの客らを自分の命を賭して助けようとしていた。ミコトや六郎たちの検証によって町田のその行動が明らかになったとき、視聴者はそのあまりに"人間的な"姿に深く感動する。
この記事では、一つのセリフをもとにこのドラマの"文学的"な側面を考えてみたが、ほんとはこのドラマについて語りたいことは無限にある。第8話に限っても、「10体の遺体と謎の火災」というミステリーの説き起こしとしては最高に魅力的な舞台設定、六郎の父の非情な態度と、ミコトの母の愛情深さの対比、町田がビル内の全ての店と関係があったことなどで深まっていく謎とその裏に秘められた泣ける真相、六郎がUDIに居場所を見出したときの感涙などなど、見所満載。ドラマに惹きつけられすぎて疲れてしまうほどだ。
あと2話で終わってしまうのが、本当に惜しい。
※第9話、最終話の感想、こちらに書いています。