オバマとトランプはどちらも”エリートではない"らしい。
もちろん2人は一流大学を卒業している。オバマはハーバード大学で、トランプはペンシルベニア大学ウオートン校(ビジネススクールとしては超一流)。一般的には両人ともスーパーエリートの部類に入るだろう。しかし「アメリカの大統領の経歴」という観点からは二人ともそこまでのエリートではないらしいのである。
これは、東大で政治思想史を研究している宇野重規教授の講演の中での話。講演タイトルは『「ポスト真実」の時代のメディアと法』。一応自分もメディアの中の人間であるので「聞いておいて損はないだろう」というくらいの軽い気持ちで申し込んだのだが、無類に面白かった。「ポスト真実」という最先端のように語られるトピックが、200年近く前のトクヴィルという政治思想家(政治哲学・思想の界隈ではめちゃ有名なフランス人)の射程の中で論じられていて、久しぶりにアカデミズムって面白い!と思えるような講演だった。
さて、オバマとトランプの話である。なぜ彼らが米国大統領としては、エリートではないのだろうか。
宇野教授によれば、米国大統領の大半は上院議員や州知事を何期も経験したあと、その地位に登りつめるのがふつうなんだそうだ。しかしオバマは上院議員を一期やっただけ。トランプはどちらも経験していない。つまりオバマとトランプは「米国大統領としては全然エリートとは言えない」というわけ。
また欧州のしがらみを逃れた人々が建てた国家の国民として、アメリカ人は伝統や権威を軽視しがちなように思われているが、実はそうではなく、一定程度それらを重んじているのだそうだ。米国の上院は英語でSenate。これはローマの元老院Senatusに由来している。また州知事governor古代ローマの「総督」に由来している。この辺りの用語の採択に、ある種エリートを重視する米国民の心情が現れているらしい。
がゆえに"米国大統領的エリートではない"オバマとトランプが連続して大統領に選出されたことに、宇野さんは米国民の重大な変化の兆しを見る。それは大衆が「草の根民主主義」的に行動するようになったからだ、と。アメリカ国民が権威やマスコミ(の主張)ではなく、自分の感覚・主義を重視し、それに基づいて投票するようになった、と言うのである。
オバマに関してはマイクロレベルで大衆からの献金を募り、それを自分の活動資金にしていった。トランプはマスコミを介さず、ツイッターで積極的に発言。大衆の心を直接掴んでいった。そういった大衆と自分との直接の関係性という意味ではオバマもトランプも共通しているのだ、と。
普段の報道だと真逆のイメージのある2人の大統領が、政治を哲学するプロのレンズで見てみると意外にもその姿が重なり合ってくる。この辺りが一級のアカデミズムに触れる面白さだと思う。
さてその2人の大統領を誕生させた草の根民主主義を奉じる人たちはどういう行動を取りがちか。そのことについて、前述した19世紀の思想家・トクヴィルが言及しているらしい。自分で考えるようになった大衆は(矛盾しているようだが)周りの多数者の意見に流されやすくなってしまうというのだ。そしてここに大衆がファクトニュースに飛びついてしまう「ポスト真実の時代」の根本的な要因があるのだ、と宇野教授は語る。
ポスト真実の時代が始まった、とか言うと、その原因をツイッターで言いたいことを言いまくるトランプの個人の資質に帰する論が多いが、もっと時代の底の方で、大衆の心に何がしかの変化が起きていると考えた方がいいらしい。
もちろんその変化の陰にはツイッター、フェイスブックを始めとするSNSテクノロジーの発達もあるとは思う。しかし、大衆の心情の根本的な性向として、ポスト真実・フェイクニュースを受け入れて(求めて?)しまいがち、ということが200年も前から論じられていたというのは面白い。
自分も大学時代のゼミは政治思想史だったので、トクヴィルという名前はもちろん知ってはいたけれど、原典は翻訳すらも読んだことはなかった。これを機に手に取ってみようと思う。
最後に宇野さんのお話ぶりについて。時折ご自身もメディアに登場されるらしいのだが「いやあ、怪しげな話をしてますよ。例えば、今回の選挙で”民意の審判が下った”という表現あるでしょ。一つの民意なんてあるわけないのにね。あれは専門家もメディアも使わざるをえない、しょうがない表現ですね」みたいなことをざっくばらんに話しておられた。とても好感の持てるお人柄だった。